三国遺址探訪:三国志遺跡をおもいっきり巡る旅にでよう!
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更新:2009年1月18日
遺址名
【所在地】
 肥東県八斗鎮
【行き方】
 合肥長江東路の汽車東站から響導行きなどに乗り、八斗で下車。八斗のバス停から、省道をそのまま北北東へ約390m行くと、北へ延びる道があるので、北へ約200m進む。その先の八斗中学から続く建物の手前から畑道に入って、西へ約300m行くと到着。八斗中学の西南。

写真
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魏
呉
蜀
【周辺地図】
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【訪問時期】
 2005年7月1日
 2008年5月19日

【ピンイン】
 cáo zhí mù

【関連遺址】
 ◆曹植墓 - 東阿
 ◆曹植墓 - 通許
 ◆思陵塚 - 淮陽

【関連人物】
 曹植

【ちょこっと解説】
  曹植、字は子建。豫州沛国譙県(現在の安徽省亳州市)の人。曹操の五男。王に封ぜられ、諡号は思。詩人としての才能は群を抜く。このため父曹操に溺愛されるが、曹操亡き後、兄曹丕との後継争いに敗れ冷遇される。安郷侯、鄄城侯、雍丘王、浚儀王、雍丘王、東阿王、王と転封され、各地を転々とする。太和六年(西暦232年)に失意の元、陳郡(現在の河南省淮陽県)で病没、東阿(現在の山東省東阿県)の魚山にて葬られる。
  この曹植墓は衣冠塚。「肥東県誌」では、曹植が曹操の呉討伐に従って魚山と呼ばれていたこの地で駐屯、しかし当年は大干魃の年で一歩両眼井さえも涸れてしまう。曹植は疲労と渇水のためこの地で亡くなった。後に曹植を記念し、魚山を曹植陵墓とし八斗陵と称したとされる。
  曹植墓の塚は、数年前に修復されている。墓前には清光緒十六年「魏陳思王曹公子建之墓」の碑があった。この碑は、現在肥東県城内に住まれる個人の方が自宅で保管されている。1966年、この方が八斗中学付近を散歩中、この碑が残されているのを発見する。その後、1980年代初期に八斗郷政府(現在の八斗鎮)に置かれているこの碑を発見、当時は豚の餌箱として利用されていたようで、この方は勿体なく思い自宅へ持ち帰っている。文管所の人員が調査に来たこともあったが、管理所へ持ち帰ることなく、未だにこの方の自宅内にて保管されているとのこと。

【探訪後記】
  2005年に訪れた時には、まだ墓も修復されておらず、村人に聞いてもはっきりした位置を知っている人は少なかった。八斗中学の周辺をグルグル回っているうちに、溝にはまり泥だらけに。井戸がある場所で靴を洗っていると、おばちゃんが寄ってきて、椅子などを貸してくれた。ご飯も食べろと用意してくれた。肝心の墓は跡地しかなかったけれど、親切にして貰った思い出。ネットでいろいろと調べていると墓碑は肥東県の個人が保管しているとのことだった。また墓の復元計画も書かれている。その記事を書いた新聞社へ押しかけようかと思ったが、情熱が足りずに挫折。
  2008年、墓が復元されたようなので見に行った。遠目に見ると煉瓦の墓と、墓碑が立っているように見えたが、すぐ近くの人民の墓碑だった。曹植墓は復元されているが、石碑などはまったくない。計画もほとんど進んでいないようだ。
  さて、前回果たせなかった曹植墓の碑を探す。肥東県城在住の個人の方の自宅にあるそうだ。ネットで調べると名前と元職場が載っていた。これだけの手がかりがあればなんとかなるだろう。幾度となく聞き込みをして、ようやくその方の自宅へ到着。誰か居ないかと覗いてみると、お昼寝中のようだ。しばらく前で待つ。待っていると扉が開いた。さっそく突入。しっかり碑を見せて貰うことに成功した。「魏陳思王曹公子建之墓」と刻まれた碑。残念ながら二つに割れていたが、文字はまだ認識できた。個人の家なので場所は詳しく書かないが。3年越しの捜索がやっと実を結んだ。

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