わかりづらいが、かなり大きな塚が残っている。
封土は流用され、現在では高さはないもののかなり大きな塚である。
基本情報
ちょこっと解説
黄巾軍首領張角、冀州鉅鹿郡の人。現在の定州市子位鎮七級村が故里とされている。もとの村名は七祭だったとされ、伝統的な葬儀習慣で祭祀七七四十九日が由来だとされる。その後、発見を逃れるために「祭」は「汲」となり、さらに七級と変化したとされる。
張角墓、もとはその弟である張宝、張梁の墓もあったのだが、現在では張角墓一座だけが残る。墓地は7000平方メートルもあったが、墓穴はすでに残っておらず、張氏末裔が守ってきたのだが、封土も少なくなり、墓地のほとんどは村の宅地となってしまっている。
張角墓、もとはその弟である張宝、張梁の墓もあったのだが、現在では張角墓一座だけが残る。墓地は7000平方メートルもあったが、墓穴はすでに残っておらず、張氏末裔が守ってきたのだが、封土も少なくなり、墓地のほとんどは村の宅地となってしまっている。
探訪後記
山東省徳州から列車に乗って、石家庄で乗り換えて定州まで。しかし、石家庄で乗り換える列車が遅れてしまった。定刻通りに定州に着いていれば、内堡行きのバスに乗って楽々と七級村へ行けていたのだが、遅れたので子位行きに乗った。地図で確認しても子位鎮から七級村までは5kmくらいあるが、しかたない。とぼとぼと歩いて向かう。七級村に到着、村人に聞き込みをする。最初に人民おっさんに聞いたのだが、言われたとおりに行っても何もない。おかしいな。次に日向ぼっこしていた人民ばあちゃんたちに聞いてみる。するとまったく逆の方向を教えられた。まあ、行ってみないことにはね。そして村の南端に到着。あ、これか。かなり大きな土盛りがある。ところどころが通路になっていてえぐれている。高さが低いので、一見封土には見えないが、たしかに墓だ。しばらくすると村人が集まってきたので聞いてみると張角墓だと言う。さて、次の移動もあるので定州へ戻るか。でも子位鎮まで歩くのは嫌だな。村人に聞いてみると、乗り合いタクで隣の木佃へ行けばバスがあると言う。ここで待っていても最終バスが来るらしいが、先に乗り合いタクが来たので木佃へ。そこからバスに乗って定州まで戻った。いや、もう歩き続けるのは大変だからさ。
位置情報
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