黄河沿いに立てられた石碑。
馬頭村の五佛寺に保管されている明万暦年間の皇経碑記。
馬頭村の五佛寺に保管されている清乾隆年間の重修碑記。
原陽官渡之戦・学術討論会の名簿。
馬頭村の五佛寺遠景。
基本情報
【訪問時期】2013年3月28日
【関連人物】曹操袁紹
【文物保護】1977年6月11日公布 原陽県文物保護単位「官渡戦場遺址」
ちょこっと解説
 漢建安五年(西暦200年)、曹操と北方の大勢力となった袁紹が雌雄を決する戦いが官渡にて行われた。これに勝利した曹操は、北方に残る残党も掃滅し、河北全域を支配する圧倒的な勢力を誇るようになった。
 官渡之戦遺址、2004年に大賓郷馬頭村にて明万暦年間の皇経、清乾隆年間の五佛寺重修碑が出土した。これらの石碑には馬頭村が官渡であるという記載があった。また陽武県誌(現在の原陽県)や水経注にも官渡水は陽武を経ていること、古官渡村は陽武にあったことが記載されている。このことから官渡の戦いは原陽県内で起こったと主張されるようになっている。また馬頭村で出土した二通の石碑は五佛寺内にて保管されている。
探訪後記
 原陽馬頭村で官渡之戦に関する石碑が出土、中牟とこっちが本物の戦いを始めている。ネットでさらに調べていると一枚の画像に目が止まった。官渡之戦遺址と刻まれた石碑だ。この石碑は見たことがない。ただその石碑がどこにあるのかがはっきりしなかった。武庄水利工程と書かれているので、河の畔の護岸工事か何かだろうか。石碑の後ろには大きな構築物が写っている。武庄はたぶん村の名前だろう。Google Earthで原陽付近を見る。黄河の畔を見ていると、何やら工事が行われて大きな構築物が並んでいる。ここだな。確かに武庄という村の近くだ。さらに調べると黄河公園というのも造成されている。たぶんこの近くに間違いないだろう。
 さて、さっそく訪れてみよう。原陽の街で官廠行きのバスを探す。発車地点を見つけられなかったが、ここを通るだろうと予想した交差点で待っているとバスが来た。しかし、官廠からはまだ数kmあるようだし、娘も連れているのでその往復を歩くのは大変だな。官廠へ行ってしまうとタクシーを捕まえられるかどうかもわからない。と言うことで、原陽の街からタクシーで行くことにした。停まっていたタクシーに聞いてみると往復50元。あらら、けっこう距離があるのに安いんじゃないと思ったので乗ることにした。運ちゃんは場所をしらなかったが、電話をかけ始め仲間に聞き始めた。官廠を越えたあたりで地元人民にも聞き込みを開始。黄河公園で聞くとだいたい知っていた。さて、黄河公園に近づくと武庄の看板も見えた。ここに間違いないだろう。黄河の北岸に到着。あらら、でも大きな構築物が全然ないな。でも黄河公園の前に出ると、あの石碑が立っていた。ああ、よかったよ。せっかくここまで来て違う場所でしたなんて嫌だしね。まあ、ここには石碑一枚で曹操像などもないから寂しいと言えば寂しいのだが。黄河を挟んで南側は中牟だ。果たして争奪戦の行方は。まあ、開発してもすぐに消えるのだろうけどさ。
関連遺址
官渡古戦場
官渡古戦場

[ 中牟 ]
位置情報
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投稿情報
【カテゴリ】河南省原陽県
【 タグ 】曹操袁紹
【公開範囲】大将軍 丞相
【掲載日時】2016年7月9日 23:22
【更新日時】2019年1月12日 19:37
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