「晋周処墓」とだけ刻まれた墓碑。
墓碑は民家に囲まれた場所に残されている。
基本情報
【訪問時期】2013年11月8日
【関連人物】周処
【文物保護】
ちょこっと解説
 晋平西将軍周処、字は子隠。揚州呉郡陽陽羡県(現在の江蘇省宜興市)の人。鄱陽太守周舫の子。年少の頃は暴れ者で、郷里でも疎まれていた。後に陸機、陸雲のもとで師事し自らを改めると、父をも凌ぐ功績を挙げるようになった。呉滅亡後、晋に仕えるが、その勧善懲悪な性格が権力者から憎まれることとなり、氐羌の反乱鎮圧に送り込まれ、戦死している。
 周処墓碑、「晋周処墓」の四文字が刻まれている。一説では、周処は周村人であり、除三害の故事がここでも受け継がれている。周村鎮は原名長橋鎮だったが、澤州府誌に「西晋平西将軍周処墓葬與鎮西、并修有周孝侯祠」と記載があることから、周村鎮と改名された。
探訪後記
 開封太郎さんと江蘇宜興の周孝侯祠へ行ったときに、その中の展示で周処墓碑の写真があった。今でも残っているようだし、機会があれば訪れてみようと場所だけを覚えておいた。そして河南北部の焦作まで来たので、そこから晋城経由で行ってみる。晋城までは列車でも行けるのだが、時間のよい列車がなかったのでバスにした。バスも高速道路を走るので、それほど時間もかからなかった。晋城に到着後、バスを乗り換えて周村へ向かう。ネットの情報では周村の西側にあるとのことだったので、周村中学の前あたりで下車した。ここからとにかく街の中へ入って行こう。100mほど進むと、道路の向こうに石碑らしきものが見えた。なんの碑かなと思い、近づいて見てみるが、お目当てのモノではなかった。と、周りを見渡すともう一つ石碑があった。「あ、あの形は写真で見たのと同じだ」と感じたので行ってみる。するとやっぱり周処墓碑だった。意外とあっさり見つかったな。
関連遺址
周袍塢
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[ 宜兴 ]
位置情報
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投稿情報
【カテゴリ】山西省澤州県
【 タグ 】周処
【公開範囲】校尉 都督 大将軍 丞相
【掲載日時】2016年11月23日 21:36
【更新日時】2019年1月12日 19:45
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