太史慈墓遠景。
太史慈墓の前面には「東莱太史慈之墓」と刻まれた墓碑が。
文物碑: 1982年5月17日公布 鎮江市文物保護単位「太史慈墓」
文物碑裏面の説明書き。
基本情報
【訪問時期】2005年6月23日 / 2008年5月10日
【関連人物】太史慈
【文物保護】1982年5月17日公布 鎮江市文物保護単位「太史慈墓」
ちょこっと解説
 太史慈、字は子義。青州東莱郡黄県(現在の山東省龍口市)の人。揚州刺史劉繇に仕えたが重用されず、孫策に仕えるようになる。孫権を補佐し数々の戦功を建て、折衝中郎将、建昌都尉を務める。漢建安十一年(西暦206年)に、曹操の部将張遼と交戦中に矢傷を受け、京口(現在の江蘇省鎮江市)へ戻った後、死亡。孫権によって北固山に葬られる。
 太史慈墓は北固山中峰の西南麓に位置し、高さ1.7m、直径約3m、墓前の石碑には「東莱太史慈之墓」と刻まれている。墓は清同治十一年(西暦1872年)の城壁修理時に発見され、保全されてきたが、山崩れで埋没する。現在の墓は1985年に再建されたもの。墓前にはもともと太史慈の生涯を記した碑があったが、すでに残っていない。
探訪後記
 実は北固山には二度訪れているのだが、一度目は太史慈墓を素通りしている。というか存在を知らなかったのである。その頃は中国旅行を始めたばかりで、連れられるがままに観光地を回っていただけ。三国遺址にもそれほど興味がなかったころである。
位置情報
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投稿情報
【カテゴリ】江蘇省鎮江市
【 タグ 】太史慈
【公開範囲】校尉 都督 大将軍 丞相
【掲載日時】2016年8月7日 20:45
【更新日時】2019年1月12日 19:56
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