漢之源景区に移設された射戟台。
射戟台の石碑と呂布が立ったとされる石台。
文物碑: 1984年公布 沛県重点文物保護単位「射戟台」
文化館内にあったときの射戟台。
射戟台の石碑などはそのまま。
基本情報
ちょこっと解説
漢建安元年(西暦196年)、淮南王袁術が沛の劉備を攻め、後に徐州の呂布を攻略しようと大将紀霊に三万の兵を与え派兵する。劉備は豫州刺史とはいえど、沛しか領しておらず兵も足らない。ただ呂布を頼り助けを求めることしかできなかった。呂布はこれに応え、兵を進める。そして兵営に紀霊と劉備を招き、共に酒を飲み始める。呂布は双方に兵を退くことを勧めるが、紀霊は聞き入れない。呂布は怒って、自らの戟を轅門の外百歩のところに立てさせ、「吾が一箭を放ち戟に中てたなら兵を退け、外れたなら闘うがいい。もし吾が言に逆らう者がいるなら、力を合わせてそれを拒む。」と叫ぶ。そして一箭を放つと、見事に戟に命中する。紀霊は呂布と劉備が力を合わせて抗戦することを恐れて撤退した。
現在は、1968年に出土した清乾隆十二年(西暦1747年)の知県文林朗による射戟台碑と、当時呂布の足下にあった石だったとされる直径1.2mの石台が保存されている。
現在は、1968年に出土した清乾隆十二年(西暦1747年)の知県文林朗による射戟台碑と、当時呂布の足下にあった石だったとされる直径1.2mの石台が保存されている。
探訪後記
遺跡に酔っぱらい。以前、河南省新野県で遺跡を見ていると、飲んだくれた政府の人員が絡んで来て喧嘩になった嫌な思い出がある。ここでも、酔っぱらったおっちゃんが近づいてきた。「あゝ、また喧嘩しなきゃダメかな。」とも思ったのだが、この人民おっちゃんは違った。酔っぱらってはいるが、いろいろと説明をしてくれる。「よかったよ、いい人で。」と安心した。こうやって遺跡捜索でいい人と出会えるとその街は好きになるし、新野の様にカスが、それも政府人員が酔っぱらってくだをまくという悪態をつくと、その街の印象は最悪となる。やっぱり旅は楽しく過ごしたい。親切な酔っぱらいおっちゃん、どうもありがとう。
その後、Google Earthを見ていたら、沛県文化館がぶっ潰された画像に替わっていた。ということは呂布射戟台はどこへ行ってしまったのだろう。ネットで調べてみると、劉氏会館へ遷されたことがわかった。まあ、もともと文化館でも出土した石碑を置いてあっただけなので、どこかに遷されるのは問題ないかな。ちゃんと綺麗に整備された公園内に置かれているなら合格だろう。
その後、Google Earthを見ていたら、沛県文化館がぶっ潰された画像に替わっていた。ということは呂布射戟台はどこへ行ってしまったのだろう。ネットで調べてみると、劉氏会館へ遷されたことがわかった。まあ、もともと文化館でも出土した石碑を置いてあっただけなので、どこかに遷されるのは問題ないかな。ちゃんと綺麗に整備された公園内に置かれているなら合格だろう。
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