墓の前には建安七子の石碑も並ぶ。
七子島にかかる橋。
基本情報
【訪問時期】2010年11月13日
【関連人物】陳琳
【文物保護】
ちょこっと解説
 陳琳、字は孔璋。徐州広陵郡洪邑県(現在の江蘇省宝応県射陽湖鎮)の人。大将軍何進のもと主簿を務める。何進の死後は、冀州の袁紹陣営で幕僚となり、軍中文書を多く手がけて記している。最も著名なものは、官渡の戦いで記した「為袁紹檄豫州文」。その文は曹操の罪状、父や祖父を辱める内容で、曹操を激怒させている。袁紹が敗北したあと曹軍の俘虜となるが、曹操にその才能を認められ、司空軍師祭酒を命ぜられる。漢建安二十二年(西暦217年)の疫病で病没。
 陳琳墓、墓の位置は説が多くある。江蘇省宝応県射陽湖鎮平江村に位置する双女崗が陳琳墓ではないかとされる。大縦湖にある陳琳墓は、観光用に新しく作られたもの。一説では大縦湖鎮が陳琳の祖籍であり、大縦湖景区開発中に発見された遺物が陳琳墓の物であったとされる。現在では、七子島上に建安七子の石碑なども立てられている。
探訪後記
 ちょっとした用事があって徐州まで行くことになった。それでもただ徐州へ行くだけではつまらないので、ここ塩城に立ち寄ることにした。陳琳墓の存在は、掲示板でそんしあさんから聞いていたので問題ない。ただここまで来る機会がなかなかなかったのだ。広州から塩城まで飛行機で飛んだ。ただ広州でアジア大会を開催している影響で、意味のわからない航空管制が出てディレイ。塩城空港からはタクシーで飛ばす羽目になってしまった。大縦湖に到着、クソ高い門票を買って中に入る。係員のおばちゃんに陳琳墓の場所を聞く。入口からほど近い場所にあるとのこと。大縦湖は風景区になっているのだが、別にどおってことのない湖、陳琳墓がなければ来ることがなかっただろうな。わずか20分ほどで風景区から撤退。列車に乗って徐州へ向かいたかったので、急いで街へ戻りたいのだが、乗ってきたタクシーが別の客を乗せてどっかへ行ってしまった。電話をかけて急かすのだが、なかなか戻ってこない。この野郎。結局、戻ってくるのを待って街まで飛ばしたが、列車の発車時刻には間に合わず。このタクシーオヤジ「もう間に合わないからガスを入れていこう」とか完全に人事状態。まぁ、ここで切れても仕方ないので火車站まで送らせる。火車站に到着する。ホームの方を見てみるとまだ人民がたくさん。確認してみると、乗りたかった列車が遅れてまだ到着していないとのこと。ふふふ、なんだよ。改札を済ませてホームへ出ると列車が来た。夜には徐州に着いておきたかったので助かったよ。
位置情報
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投稿情報
【カテゴリ】江蘇省塩城市
【 タグ 】陳琳
【公開範囲】校尉 都督 大将軍 丞相
【掲載日時】2016年7月31日 19:39
【更新日時】2019年1月12日 19:54
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