雑草が覆い茂っている場所が塚の跡。
蘆が茂っているあたりが曹軍の使った井戸の跡らしい。
基本情報
【訪問時期】2008年5月19日 / 2016年4月1日
【関連人物】典韋
【文物保護】
ちょこっと解説
 典韋、兗州陳留郡己吾(現在の河南省寧陵県黄崗鎮己吾城村)の人。もとは張邈の配下だったが、後の曹操が呂布を討伐するときに曹操の配下となり、その武勇から校尉に任ぜられる。その後、曹操の護衛として用いられるが、漢建安二年(西暦197年)の張繍征伐時に戦死する。
 典韋墓遺址、なぜここに典韋墓があるのか詳しくはわかっていない。現在は上に民家が建てられているが、塚の部分は識別できる。典韋墓の南側には、曹軍が使ったとされる両歩三眼井があったとされるが、現在は沼のようになっている。
探訪後記
 柘皋へは肥東からバスに乗った。あまりバスが通らないところのようだ。進むにつれて道が悪くなっていく。なんとか柘皋に到着。ネットでの情報には「油工場の前」となっていたので、「油工場ってどこですか」と人民オヤジに聞いてみた。「油工場、ここにはいっぱいあるんだぞ」との答え。「う~ん、どれかはわからないんだけど。典韋墓のあったところ」と言うと、「それならあっちの方かな」と指さす。言われた方向へ歩いて行ってみた。詳しい場所がわからないので、また知ってそうなちょっと年配の人民に道を聞く。ときどき典韋墓のことを知っている人民オヤジもいた。「もしかしたら残っているのかも」と期待しながら進む。やっと目的の油工場へ到着。工場前には野原が広がっているが、墓らしきモノはない。近くで農作業中の人民に聞いてみると、原っぱの中を指さす。やっぱりここにあったらしい。野原の中へ入ってみる。奥の方はぬかるみになっていて、けっこう深さがありそうだ。その中の一角に葦が生えたところがある。ちょうど墓の大きさくらいに。ここが墓の跡なのかも知れない。これ以上詳しいことはわからなかったが、是非とも復活して欲しい墓の1つである。
 あれから8年弱、再度訪問する機会があった。以前来たときに墓跡だと思っていた場所は、曹軍が使った井戸の跡だとのことだった。肝心の典韋墓は、その東北側にある民家の下敷きになった土盛りであった。上には民家が建てられているものの、ちゃんと封土らしく見えるところはなかなかよいかなと思ったりもする。さすがに8年も経っているとこの辺りもだいぶん街並みが変わっていて、たどり着くのにもちょっと戸惑ってしまった。
位置情報
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投稿情報
【カテゴリ】安徽省巣湖市
【 タグ 】典韋
【公開範囲】都督 大将軍 丞相
【掲載日時】2016年9月3日 08:51
【更新日時】2019年1月12日 20:13
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