嵇康墓全景。封土がなく石室部分が露わになっている。
盗掘時に開けられた大きな穴らしい。
穴はすでに埋められている。墓室の中は空だということだ。
基本情報
ちょこっと解説
嵇康、字は叔夜。豫州沛国譙郡銍県(現在の安徽省濉渓県)の人。竹林七賢の一人。曹操の曾孫を娶り、魏の中散大夫に任じられている。
嵇康墓、嵇山南麓(もと濉渓臨渙に属した)に位置する。渦陽県が設立される前には宿州に属し、清嘉慶十年(西暦1805年)宿州知州李清玉による碑文「重修嵇康墓」にも記載があるように、山肌の大きな岩を開鑿し、巨石で入口を封じられていた。墓はすでに盗掘され、空となっているが現存している。
嵇康墓、嵇山南麓(もと濉渓臨渙に属した)に位置する。渦陽県が設立される前には宿州に属し、清嘉慶十年(西暦1805年)宿州知州李清玉による碑文「重修嵇康墓」にも記載があるように、山肌の大きな岩を開鑿し、巨石で入口を封じられていた。墓はすでに盗掘され、空となっているが現存している。
探訪後記
石弓行きのバスを探したが、見つからなかったので通過するバスに乗った。いつもの如く「なんでそんなところへ行くんだ」と質問される。「嵇康墓を見に行くんだよ」と言っても、「誰の墓なんだ」ってところから話をしないといけないので面倒くさい。この墓は「三国人物埋骨何方」というネット文章に載っているのだが、マイナーな街にあるためになかなか来る機会がなかった。ネットで調べると穴ボコだけは残っているようなので行ってみたのだが。村へ着くと人民がたむろしていたので「嵇康墓はどこ」と聞くと、若い人民にいちゃんが連れて行ってくれることになった。村の裏山へ登って行き到着。確かに穴ボコが開いている。しばらく見ていると、人民おっさんがやって来た。話をしてみると、この村で先生をやっているそうだ。墓の説明などをして貰う。墓は採石の影響で元の面影がほとんどない。それでも保護のために採石は禁止され、今の状態で残っているとのこと。その後、この先生の自宅へ招かれ、お昼ご飯をご馳走になる。そしてビールも何本か飲んだ。時期的にもハエがすごく多くて大変だったのだが。なかなか暇を告げることもできずに夕方まで長居することに。まぁ、こんな旅の方が記憶に残るからいいだろう。ちなみに村の名前は、郭楼村と黄楼村が合併したので郭黄楼となったそう。通常は黄楼と言えば通じる。
位置情報
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