2008年の譙陵寺遺址。遺跡上の建物は学校として使われていた。
2008年、譙陵寺の主である田長明さん。いろいろと説明してもらった。
2008年の譙陵寺遺址の建物内部。特に残っているものはない。
2015年末の譙陵寺遺址。普通の寺になっている。
文物碑: 2012年3月30日公布 亳州市級文物保護単位「譙陵寺遺址」
基本情報
【訪問時期】2008年5月28日 / 2015年12月31日
【関連人物】曹操曹丕
【文物保護】2012年3月30日公布 亳州市級文物保護単位「譙陵寺遺址」
ちょこっと解説
 譙陵寺、又は譙令寺とも称する。漢中平四年(西暦187年)に曹操が官職を辞し、故郷へ戻る。当時、この場所に読書精舎を建て、「春夏読書伝、秋冬狩獵」隠居休養したとされる。曹丕もこの場所で生まれた。また周囲には攔馬溝の跡が残っており、軍馬を養っていた場所でもある。現在は跡地に学校が建設されている。
 漢中平元年(西暦184年)の冬、黄巾の乱を鎮圧に功績のあった曹操は、議郎から済南国相に昇進する。済南国は済南王劉康のもと10県を管轄していたが、その県令、県長はほとんどが朝廷の貴族や宦官で、豪族たちと結びつき、権力を盾に悪行の限りを尽くしていた。曹操が着任するや、瞬く間に調査、朝廷に奏し、8県の県令などを罷免させ、清廉な小役人たちを抜擢した。また朝廷が許可した以外の廟や祠などはすべて取り壊し、迷信活動などを取り締まる。こうしてこの地域の治安は劇的に向上した。
 しかし、宦官や豪族たちの恨みを買った曹操、3年の任期を終えると、朝廷に宮中警備の職に戻すように要求。しかし済南での曹操の功績は大きく、朝廷は東郡太守に任ずる。曹操は病気を理由に辞退するが、許されずに着任。その後、曹操は病気の長期療養と称して官を辞し、故郷へ戻る。譙陵寺で1年余りが過ぎ、漢中平五年(西暦188年)秋には、情勢の変化から都尉となり兵をまとめるようになる。しばらくして典軍校尉とまでなる。
探訪後記
 さすがに亳州だけのことはある。曹操に関わる遺址の保護には力を入れているようだ。文物碑を立ててあるだけでも、この場所だと強く伝わってくる。
 バスに乗って観堂鎮に着いたはいいものの、田庄までは約8kmあると判明。バスを途中で降りればよかったことを知らされる。仕方ないのでバイタクで途中まで送ってもらう。目印も何もない場所を曲がって、房窪という村まで来た。そこからもうしばらく行くと田庄だそうな。
 田庄の西北、村からも文物碑が見える。到着して建物の中へ入ると学校のようだ。教室の中で子供たちが勉強をしている。しばらくすると中からおっさんが出てきた。話しかけると、いろいろと説明をしてくれた。そしていつの間にやら、村人が集まってきた。その中には御歳80歳の田長明じいさんが。このじいさん、譙陵寺の主らしく、さらに説明が続く。建物の裏には墳墓が4つあったそうで、それも曹操一族の墓だっただとか、西北には曹陵、東北には曹操の宅地跡があったとか。さすがに曹操に関する言い伝えは尽きることがないようだ。以前、譙陵寺遺址が紹介された2000年の新聞記事や、紹介文の書かれた紙なども見せて貰う。この辺りの人民たちは皆、曹操が大好きなんだろう。
位置情報
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投稿情報
【カテゴリ】安徽省亳州市
【 タグ 】曹操曹丕
【公開範囲】都督 大将軍 丞相
【掲載日時】2016年8月8日 19:02
【更新日時】2019年1月12日 20:23
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