裕渓河の向かい側は魏軍の駐留した七宝山。
東関三国古戦場の地標が所々にある。
小さな山は孫権点将台の跡地。
呉軍が馬を放牧した散馬灘。
文物碑: 2010年11月23日公布 含山県県級文物保護単位「東関三国古戦場」
ちょこっと解説
漢建安十七年(西暦212年)、呉の孫権は秣陵を建業と改め、巣湖と長江を結ぶ濡須に堡塢(要塞)を建設する。この濡須塢と呼ばれる要塞があった場所が現在の東関である。漢建安十八年(西暦213年)に曹軍が侵攻、呉軍は濡須塢で抗戦する。孫権が自ら舟に乗り偵察に曹操の陣へ。曹軍は箭を雨のように降らせ、孫権の乗る舟は片側に刺さった箭の重さで傾き転覆しそうになる。そこで孫権は舟の向きを変え、舟の逆側に箭が刺さるようにしたことで転覆を免れたという草船借箭の故事はここで生まれた。曹軍と呉軍は一ヶ月あまり対峙したが、孫権の率いる呉軍は乱れもせず、曹操は「生子当如孫仲謀、劉景昇兒子若豚犬耳。(子を持つなら孫権のようなものがよい。劉表の子などは豚や犬のようなものだ。)」と感嘆し、講和を望む孫権も「足下不死、孤不得安。(そなたが死なずば、われは安らぎを得ず。)」と書状を送り、曹軍は撤退している。
現在の東関には、孫権の点将台、呉軍が軍馬を養った場所である散馬灘が残り、裕渓河を挟んだ向かい側、西関には曹軍が駐留した七宝山が残る。
現在の東関には、孫権の点将台、呉軍が軍馬を養った場所である散馬灘が残り、裕渓河を挟んだ向かい側、西関には曹軍が駐留した七宝山が残る。
探訪後記
ここは、掲示板で三国志遺跡探検隊の開封太郎さんから情報を貰った。遠く西凉の地で暮らしているおらなので、なかなかすぐには行ける場所ではなかったのだが、一時帰国する前に立ち寄ることができた。地図で場所を確認すると含山県に属しているものの、巣湖からの方が行きやすいようだ。ネットで調べてみても、巣湖からバスが多数あるとのこと。潼関から列車で巣湖まで移動して、そこから向かうことにした。ネット上には数枚の画像があったので、事前にググル地球を使ってだいたいの場所を特定する。できることならあまり歩きたくないからだ。バスに乗って東関まで。街に入るちょっと手前で下車、そして水辺を歩いていくと東関三国古戦場の境界を示す柱が見つかった。さらに歩いていくともう一つ。その先は砂利を積載する港のようだ。そこにいた人民に「点将台はどこですか。」と聞く。「ちょっと戻った、あの山の上。」との答えだった。港から北の方へ行くと散馬灘があり、裕渓河を挟んで向かい側の塔が建つ山は曹軍が対峙した西関なんだそうだ。雨脚が強くなってきたが、歩いて散馬灘を一回りし、西関の方を望む。渡し船があったので河も渡って行けそうだが、雨が酷いのでやめた。そして点将台の方へ行く。山の上の建物は、どうやら以前学校だった感じ。今は住居として使われているようだ。入口には東関三国古戦場の文物碑が立てられているのだが、あいにく台座から外れて傾いていた。うん、でも当時を偲ぶにはなかなかいい感じの場所だったよ。
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