鄭玄が故郷に埋葬された墓だとされている。
清康煕十四年(西暦1675年)「漢鄭康成先生之墓」と刻まれた墓碑が置かれている。
文物碑: 1992年6月12日公布 山東省重点文物保護単位「鄭玄墓」
基本情報
ちょこっと解説
鄭玄、字は康成。青州北海郡高密県(現在の山東省濰坊市坊子区太保庄鎮后店西村)の人。後漢の著名な学者。漢永安二年(西暦127年)の生まれ。名門の家系であったが、鄭玄が生まれたときにはすでに没落しており、幼いころから貧しき中を勉学に励む。後に大学者馬融の下で学び、故郷へ戻る。故郷では弟子をとり学問を教えていたが、党錮之禁で門を閉ざしてしまう。漢霊帝の中平二年(西暦185年)に党錮之禁が解かれると、大将軍何進の命で州郡官吏が鄭玄を脅して朝廷に迎えたが、官職を授からぬまま僅か一晩で逃走している。その後も幾たびと官職に推されるが、受けていない。漢建安五年(西暦200年)、官渡で曹操と対峙していた袁紹が袁譚に命じて鄭玄を軍に随行させようとしたが、そのまま病で死去している。
鄭玄墓、死後は劇東(現在の山東省青州市鄭母鎮)にて葬られたが、後に墓が崩壊したために故郷である北海高密に遷され、再度埋葬された。
鄭玄墓、死後は劇東(現在の山東省青州市鄭母鎮)にて葬られたが、後に墓が崩壊したために故郷である北海高密に遷され、再度埋葬された。
探訪後記
周囲は塀に囲われている。門から中へはいると、脇に管理人室のような建物がある。そこには5元と書かれているが、人はいない。待っていても時間の無駄なので、中に入ってしまおう。誰かがいれば5元を払えばいいし。中に入っていろいろと見て回る。鄭公祠には施錠されていて入られないようだ。すると誰かが掃除をしている音が聞こえた。どうやらここの管理人のようだ。管理人もこっちに気づいて近づいてきた。まあ、用向きは金を払えということだけ。5元を渡すと鄭公祠の扉も開けてくれた。こういう小さな場所は門票自体ないことが多い。管理人が勝手に金を取っているだけなのだ。門票を売るには、ちゃんとした許可を受けなければならないし、税金だって納めなきゃダメだからね。まあ、そんな細かいことはどうでもいいけれどさ。鄭玄墓は鄭公祠の真後ろにある。雑草が多い茂っているが、ここなら消滅する危険はないだろう。いや、それでも中国だからな。気を抜いたとたんに消されることもあるし。
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