鮑氏祖塋地とされる場所にある鮑王墳。鮑信墓とされる。
封土はかなりえぐられてしまっているが、高さはかなりある。
文物碑: 1986年3月8日公布 済寧市重点文物保護単位「鮑王墳」
基本情報
ちょこっと解説
鮑信、字は允誠。兖州泰山郡平陽県(現在の山東省新泰市)の人。済北相。何進の檄を受けて董卓征伐の兵を挙げる。鮑信は袁紹に董卓を討つことを勧めるが、袁紹は聞き入れなかった。その後、袁紹や曹操が兵を起こし董卓に抵抗を始めると、鮑信も参戦する。後に聯盟が破綻すると、鮑信は曹操に静観するよう諫める。兖州において農民が蜂起すると、刺史劉岱は鮑信の諫めも聞かずに出撃し戦士する。その後、鮑信は曹操を兖州牧として迎えた。そして農民蜂起を鎮圧する際、鮑信は曹操の危機に身を挺し、戦士する。
鮑信墓、後に鮑信の子孫が大鮑村の西に墓を造成したとされる。清同治年間の進士王廷贊が著した書籍にも、鮑信とその祖はみな大鮑村の西に葬られたとある。現在は高さ約6mの塚が残るが、これは古代の狼煙台であった可能性があるとされる。その東側には広大な高台が漢墓群で、漢陶、漢画像石などが出土しており、鮑氏祖塋地であったとされる。実際には、鮑信とその祖先の墓もその高台上にあったと推測されている。
鮑信墓、後に鮑信の子孫が大鮑村の西に墓を造成したとされる。清同治年間の進士王廷贊が著した書籍にも、鮑信とその祖はみな大鮑村の西に葬られたとある。現在は高さ約6mの塚が残るが、これは古代の狼煙台であった可能性があるとされる。その東側には広大な高台が漢墓群で、漢陶、漢画像石などが出土しており、鮑氏祖塋地であったとされる。実際には、鮑信とその祖先の墓もその高台上にあったと推測されている。
探訪後記
地図で見る限り、大鮑村は街からも近いので近くまで行けるバスが走っているだろうと思い、近くのバス停へ行く。3路バスで鮑王社区まで行けるようなので、それに乗った。とにかく大鮑村まで行ってみようと、村を目指して歩く。村に入ると人民がいたので聞き込み開始。すると村とは逆の方向にあるらしい。せっかく歩いてきたのだが、逆戻りすることに。言われたとおりの方向へ歩いてきた。すると道脇に石碑とかなり大きな塚らしきものが目に入る。喜び勇んで石碑を見てみると、「ん、なんだこれ。いったい誰の墓なんだ」とガッカリ。この塚も何か謂われがあるようなのだが、目的のものではないのでスルーする。また人民を探して聞いてみると、もうちょっと西へ行ったところにあった。今度こそ目的の鮑王墳だ。文物碑もちゃんとあったので嬉しい。鮑信墓と言われているのだが、文物碑は鮑王墳。う~ん、こういうところがいまいち確信を持てなくなる部分なんだけどね。
位置情報
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