当時、禰衡が使っていた井戸だとのこと。
禰衡公園内にある禰衡記念館。
館内には禰衡に関するパネルがいくつもあった。
禰衡公園の入口。普段は施錠されていて入られない。
徳平鎮正平大街に立つ「禰衡故里」の牌坊。
基本情報
【訪問時期】2013年11月1日
【関連人物】禰衡
【文物保護】
ちょこっと解説
 禰衡、字は正平。冀州平原郡般県(現在の山東省臨邑県徳平鎮小禰家村)の人。辯才に溢れたが、傲慢な性格だった。曹操に召されたが拒絶、その才で名が通っていたため殺すことを躊躇った。後にさらに曹操を愚弄したため、激怒した曹操は他人の手で禰衡を殺すことを画策、荆州の劉表の元へ送った。劉表も禰衡が手に負えず、江夏太守黄祖の元へ送った。その後黄祖の怒りを買った禰衡は殺害されてしまう。
 禰衡故里、当時禰衡が使用していた禰衡井が残る。井戸の深さは7m、上部1mより下は当時のままの漢磚が残る。1933年、徳平県長戴章民が禰衡井の傍らに高さ2m、禰衡故里と刻んだ石碑を立てているが、現在は見あたらない。
探訪後記
 ここも禰衡公園までは簡単にたどり着いたのだが、門がしっかりと閉まっている。予想していたとはいえ、面倒くさいことだ。外からでは禰衡井がまったく見えない。どうしようかと思案していると、お隣にある食堂の人民オッサンが出てきていた。たぶんおらの姿を見かけて、出てきたんだと思う。人民オッサンに話しかける。「この中に井戸があるでしょう。禰衡の。見たいんだけど」と言うと、オッサンは「うちの二階から中を見られるぞ。来い来い」と二階まで上げてくれたのだが、草木が覆い茂っていてはっきりと見られない。「中に入る方法がないのかな」としつこく粘っていると、人民オッサンは「しょうがないな、管理人を呼んでやるよ」と電話をかけ出した。あの、できれば最初から呼んで欲しかったんですけど。しばらくすると管理人が到着。やっと中へはいることができた。禰衡故里と言っても、禰衡が使っていたとされる井戸が残っているだけなのだが、これを見ないことにはね。ついでに禰衡記念館の中も見せて貰うが、像はなかった。説明書きのパネルが床に置かれている。「武漢に禰衡の墓があるんだよ」なんて話をしながら、管理人と食堂のオッサンたちとコミュニケーションを取る。せっかく来て貰っているんだし、よい印象を与えておかなければ、今後開けてくれなくなる可能性もあるしね。まあ、訪れる人がいるかどうかもわからないけどさ。
位置情報
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投稿情報
【カテゴリ】山東省臨邑県
【 タグ 】禰衡
【公開範囲】校尉 都督 大将軍 丞相
【掲載日時】2017年9月22日 20:58
【更新日時】2019年1月12日 20:32
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