郄庄のすぐ側にある郄慮墓。封土がきちんと見て取れる。
本来の姓は郗なのだが、ここでは郄が用いられている。
文物碑: 1987年6月公布 許昌県重点文物保護単位「郄慮墓」
基本情報
【訪問時期】2005年11月15日 / 2008年6月13日 / 2016年1月2日
【関連人物】郄慮
【文物保護】1987年6月公布 許昌県級文物保護単位「郄慮墓」
ちょこっと解説
 郄慮、字は鴻豫。兖州山陽郡高平県(現在の山東省鄒城市)の人。魏御史大夫。若き頃は鄭玄に師事、後に荀彧により曹操のもとへ呼び寄せられ、建安年間初期には侍中となる。孔融と仲違いしており、罪をでっち上げ結果的には孔融を刑死させている。漢建安十九年(西暦214年)には、伏皇后が父伏完に曹操を殺害するように依頼していたことが露見、曹操の命により郄慮は伏皇后から皇后璽を収め、華歆が伏皇后を捕らえている。一説では、その後、献帝の嘆きを聞いた郄慮が悔いを表したのを曹操に咎められ、同じく誅殺されたとされる。
 なお正式な姓は「郗」。「郄」や「郤」が誤って使われることが多い。このサイトでは、現地で一番通りのよい郄慮として扱う。
 郄慮墓、墓高3.5m、周囲100m、面積900平方m。保存状態はよい。郄庄村の郄姓は全て郄慮の後裔とされる。
探訪後記
 郄庄村、村の名前はわかれど一体どこにあるのかがわからない。こういった自然村(中国には行政村と自然村の2種類がある)はほとんど地図に載っておらず、地元の人民に聞いて場所を確かめるしかないのだ。たまたま張潘鎮政府で漢愍帝陵を見ていたときに政府の人たちに話しかけられ、その中に一人詳しい人がいた。こんなチャンスは滅多にないのでわからなかったことはすべて聞いてみることにした。その中で「郄庄村はどこ」と聞くと、徐晃墓のある城角徐村からもうしばらく北へ行った場所だと教えて貰う。城角徐村で徐晃墓を見たあとに徒歩で向かった。しかし歩けど歩けどいっこうに着かない。うーん、完全に行き過ぎているんだろう。知らない村へ入ったときに、人民に聞いてみた。やっぱり行き過ぎていた。とぼとぼと来た道を戻る。もう10km以上は歩いているだろうか。いい加減疲れてきたし、靴の先が笑っているので、歩きづらい。それでも気力を振り絞って郄庄村へ到着。郄慮墓は村へはいるとすぐに見つかった。帰り道、焦庄村で靴の修理屋がいたので、靴も直して貰った。2元也。
 2008年、ここへ来るのはなぜか2度目。自分でも物好きだなと思う。今回は徐晃墓から郄慮墓へ直接向かう、畑の中ショートカットを敢行。GPSがあるから方角だけは間違えない。ふらふらと歩きながら進むが、やはり畑の中、歩きにくいところがたくさんある。普通に道を歩いておけばよかったかな。まぁ、なんとかそれほど迷わずに郄庄村へ到着。村人に「ここは郄庄ですよね」と聞いてみる。答えは「そうだ。郄庄だ。Qie(2声)庄だぞ」と人民のおっちゃん。「え、Qie(4声)庄でしょう」と言うと、「いいや、Qie(2声)庄だ」と言い張るおっちゃん。わかったよ、方言でそう言うんでしょう。おらは新華字典で調べてるんだからさ…。まぁ、こういうことはよくある。特に地名の発音はね。おっちゃんにも新華字典をプレゼントしようか。
位置情報
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投稿情報
【カテゴリ】河南省許昌市
【 タグ 】郄慮
【公開範囲】都督 大将軍 丞相
【掲載日時】2018年8月13日 23:23
【更新日時】2019年1月13日 08:47
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