小高くなった塚が残っており、見て取れる。張燕の墓とされる。
このあたりの地名である張塚は、張燕墓が由来になったと思われる。
文物碑: 1996年6月公布 周口市重点文物保護単位「東塔」
基本情報
ちょこっと解説
張燕、冀州常山郡真定県(現在の河北省正定県)の人。元の姓は褚。黄巾之乱が勃発後、張燕も万人を集め呼応する。その後、博陵の張牛角が率いる黄巾軍と合流、張牛角を頭目とするが、戦で張牛角は矢に中って傷を負い、間もなく死亡。後目を任された褚は姓を張に改める。俊敏な褚は飛燕と呼ばれていた。その後、常山、趙国、中山、上党、河内などの黄巾軍をまとめ上げ、黒山軍と称し首領となる。その勢力を無視できなくなった朝廷は、張燕を平難中郎将に封ずる。董卓討伐軍に参加したり、袁紹と争ったりしているが、後に曹操に降伏、平北将軍に任ぜられた。
後に軍を率いて戦いに向かう途中、この地で亡くなり、埋葬されたとされる。1958年に石板墓が発見され、金盤、玉蝉、剣などが出土。
後に軍を率いて戦いに向かう途中、この地で亡くなり、埋葬されたとされる。1958年に石板墓が発見され、金盤、玉蝉、剣などが出土。
探訪後記
周口にも何かないかとネットで調べていると、張燕墓があるとわかった。山賊あがりの人物なのだが、墓が残されているのはすごい。ただネットには「交通路東段」とだけ書かれており、詳細は不明。交通路東段もけっこうな距離があり、探すのも大変かなと思っていた。周口の地図を見ていると、交通路東段に張塚という地名が書かれている。「これだ、ここに違いない」と決め込んで行く。張塚で聞き込みをするとあっさり見つかった。墓の前には文物碑も立てられているのだが、ゴミだらけ。掘っ立て小屋もあり扱いは酷い。墓の後ろの建物は教会のようだ。
位置情報
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