屯田でここ長社(現在の長葛)に駐屯していた張遼。死後、ここに葬られたとされる。
文物碑:1987年6月公布 長葛県人民政府文物保護単位「張庄漢墓」
基本情報
ちょこっと解説
張遼、字は文遠。并州雁門郡馬邑県(現在の山西省朔州市)の人。張遼は長社(現在の河南省長葛市)で軍隊を駐屯させて屯田を指揮していた。魏黄初3年に病没後、張遼はこの場所で葬られたとされる。当地の言い伝えでは、匪賊が村を荒らしたときに白い霧が立ち込めると、馬に跨った将軍が現れ、匪賊を追い払う。それが張遼の霊だったとされ、村人たちは白霧廟を設け、張遼像を祭ったとされる。白霧村は張遼墓の南側。墓は漢墓で、墓主は定かではないが、張遼の墓とされており、周辺に済む張姓は張遼の子孫だとのこと。
探訪後記
ネットで調べていると、河南省にも張遼墓があるとのこと。とある中国人のブログには「俺の村には張遼墓があるんだぜ」と誇らしげに書かれてた。ほんまかいな。
今回、許昌での三国遺址捜索には、開封から開封太郎さんも駆けつけてくれた。二人で「とにかく行ってみよう。なかったら、あの中国人のブログは炎上ね」と言いながら長葛へ。バスで董村へ向かう。董村へ着いたはいいものの、張湾村へ行くバスはなかった。近くを通るバスもないようだ。さすがに歩いて片道8kmはつらい。人民に聞いても「タクシーかバイタクで」と言われる。二人でバイタクを探してみるが、全然見つからない。できれば少しでも安くつくバイタクの方がいいのだが、見つからないので、開封太郎さんが店の人に頼んでタクシーを呼んで貰うことにした。そのとき、私の目の前にバイタクが。とっさにとっ捕まえ、張湾村まで行って貰うことにした。二人を乗せた三輪バイクはまっすぐ北へ。なんとか張湾村に到着。おばちゃん達がたむろっていたので、張遼墓のことを聞いてみる。するとおばちゃん達も知っていた。おばちゃん達でさえ知っているということは、もう存在する確率は100%と言ってもいいだろう。バイタクのおっちゃんが道を詳しく聞いて、連れて行ってくれることになった。張湾村の隣、沈湾村にある。到着。けっこう大きな土盛りだ。そして文物碑が。残念ながら張遼墓とは刻まれていないが、張庄漢墓と刻まれている。地元では張遼墓と言われているようだ。ネットで調べても詳しいことは出てこない。それでも二人で大喜びしたのは言うまでもない。
今回、許昌での三国遺址捜索には、開封から開封太郎さんも駆けつけてくれた。二人で「とにかく行ってみよう。なかったら、あの中国人のブログは炎上ね」と言いながら長葛へ。バスで董村へ向かう。董村へ着いたはいいものの、張湾村へ行くバスはなかった。近くを通るバスもないようだ。さすがに歩いて片道8kmはつらい。人民に聞いても「タクシーかバイタクで」と言われる。二人でバイタクを探してみるが、全然見つからない。できれば少しでも安くつくバイタクの方がいいのだが、見つからないので、開封太郎さんが店の人に頼んでタクシーを呼んで貰うことにした。そのとき、私の目の前にバイタクが。とっさにとっ捕まえ、張湾村まで行って貰うことにした。二人を乗せた三輪バイクはまっすぐ北へ。なんとか張湾村に到着。おばちゃん達がたむろっていたので、張遼墓のことを聞いてみる。するとおばちゃん達も知っていた。おばちゃん達でさえ知っているということは、もう存在する確率は100%と言ってもいいだろう。バイタクのおっちゃんが道を詳しく聞いて、連れて行ってくれることになった。張湾村の隣、沈湾村にある。到着。けっこう大きな土盛りだ。そして文物碑が。残念ながら張遼墓とは刻まれていないが、張庄漢墓と刻まれている。地元では張遼墓と言われているようだ。ネットで調べても詳しいことは出てこない。それでも二人で大喜びしたのは言うまでもない。
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