東西に2つ並んでいた墓のうち、西墓が夏侯淵の墓と言われている。東墓はもうない。
現在は油庫の敷地内にあるため、自由に立ち入ることができない。
基本情報
【訪問時期】2008年6月9日
【関連人物】夏侯淵
【文物保護】2001年6月公布 許昌市級文物保護単位「夏侯淵墓」
ちょこっと解説
 夏侯淵、字は妙才。豫州沛国譙県(現在の安徽省亳州市)の人。夏侯惇の族弟。かつて曹操に代わって獄に入ったこともある。曹操が兵を起こして以来、共に数々の戦場へ赴き戦っている。別部司馬、騎都尉などを歴任し、功により陳留、潁川二郡の太守となる。漢建安十七年(西暦212年)には護軍将軍に任ぜられ長安を守り、韓遂、馬超の残党を壊滅。功により博昌亭侯に封ぜられている。漢建安二十二年(西暦217年)には漢中を攻略、都護将軍となり、後に漢中の守りに就き、征西将軍に任命されている。漢建安二十四年(西暦219年)に漢中の定軍山にて劉備軍黄忠の夜襲を受け戦死。諡は愍侯。
 夏侯淵墓、墓高10m、面積3300平方m。東西に2基並んでいた墓は、東墓が夏侯惇、西墓が夏侯淵のもの。東墓はすでにない。夏侯淵死後、曹操が人を派して漢中より棺を運ばせ、ここに葬ったとされる。
探訪後記
 夏侯淵墓、ここは昔から有名な遺址の一つだが、油庫内にあるので普通は入れて貰えないということが定説となっていた。今回はせっかく開封太郎さんと一緒に許昌へ来ているので、なんとか墓の近くまで行って拝みたいと思っていた。
 油庫の東門へ到着。さっそく門の所にいた職員に話しかける。「夏侯淵墓を見たいんですけど」と言うと、職員のおばちゃんは「また来たよ」という顔をする。三国遺址マニアは多いのだ。別の男性職員にお願いしてみる。電話をして聞いてくれたが「オリンピック前だし、重要な施設だから、ダメだ」との答え。「個人ではダメだが、どこか別の単位の紹介ということなら入ることができる」と言うが、そんな単位の紹介を得られるなら苦労はしない。開封太郎さんと一緒に日本人ということを最大限にアピールし、ごねまくる。男性職員も根負けし、近くにいた主任も「ちょっとだけならいいだろう」と言ってくれるし、中へ入れて貰えることになった。私と開封太郎さんの勝利だ。
 中へ入ると、伊さんというおじさんが出てきて、案内してくれることになった。夏侯淵墓は白い塀に囲まれて、一カ所に出入り口があるが、中は管轄が違うのでさすがにそこまでは入られなかった。伊さんはいろいろ説明してくれ「夏侯淳墓はもう真っ平らになった。あと2つ墓があったがそれももうない」とのこと。「おまえらは外国人だから、今回は特別に中へ入れてやったんだぞ」と何度も言われる。はい、わかっておりまする。でも無理矢理突撃しないと見られないし。ちなみに以前は、韓国人が30人の団体で押し寄せたこともあったとか。また言葉の全く通じない欧米人が一人で突撃してきたこともあったそうだ。夏侯淵墓、何とかもうちょっと普通に見ることができるようにならないだろうか。
位置情報
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投稿情報
【カテゴリ】河南省許昌市
【 タグ 】夏侯淵
【公開範囲】都督 大将軍 丞相
【掲載日時】2018年8月17日 21:08
【更新日時】2019年1月13日 08:48
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