祖師廟門前に置かれている一対の石羊。北魏代のもの。
これらの石羊は許褚墓の神道に置かれていたものだと言われている。
こちらは李氏家祠内に保管されている明代の石羊。
基本情報
【訪問時期】2008年6月28日
【関連人物】許褚
【文物保護】
ちょこっと解説
 許褚、字は仲康。豫州沛国譙県(現在の安徽省亳州市)の人。後漢末期に同族子弟を集め、要塞を築いて黄巾賊に抵抗をしていた。後に曹操に仕え都尉となる。建安二年(西暦197年)曹操の張繍討伐時に先鋒を務め、功により校尉となる。建安九年(西暦204年)には曹操の鄴攻めで奮闘、関内侯に封ぜられる。建安十六年(西暦211年)には馬超を撃退し、武衛中郎将となっている。魏文帝代には万歳亭侯、武衛将軍。魏明帝代には牟郷侯に封ぜられた。諡は壮侯。
 許褚墓、武陟県龍源鎮の祖師廟南300mのところにあったが、現在は存在していない。西仲許村は元の名を許家庄といい、許褚はここで生まれたという言い伝えがある。その後、許褚の後裔が姓を「順」に変えたときに祖師廟が建立され、何かの因果関係があると考えられている。2004年10月9日公布、武陟県重点文物保護単位「祖師廟遺址及石刻」。祖師廟門前には、北魏代のものとされる石羊一対が残されている。また、2003年3月30日公布、武陟県文物保護点「李氏家祠旧址及石刻」の李氏家祠内には、明代の石獅一体と石羊一体が保管されているが、どちらも許褚墓と直接関係があったという記述は見られない。
探訪後記
 開封で開封太郎さんに「中国歴代将帥陵墓」という書籍を見せて貰った。その書籍に載っていたのが、この許褚墓の石羊だ。写真も掲載されていたし、開封太郎さんが「行ってみてくださいよ」と言っていたので、せっかく武陟まで来たのだから探してみることにした。まずは西仲許村を探す。地図を見ると東仲許村が載っていたので、その隣だろうと思い歩いていく。街の中心からはそんなに遠くないようだ。村の西北側から入って来たので、すぐに祖師廟が目に入った。その門前に置かれている一対の石羊は、以前に許褚墓の墓道に置かれていたものらしい。そして李氏家祠へ。ここは鍵がかかっていたので、鍵を持っている人を探す。話しかけた人民じいちゃんが知っていて、鍵を持っている人の家まで行って鍵を借りてきてくれた。祠の中にはもう一体の石羊が保管されていた。これらが本当に墓道に置かれていたのかはっきりしないが、まぁ、いいだろう。人民じいちゃん、ありがとう。ちなみに許褚墓自体は、たぶん武陟一中分校の下敷きになってしまったらしい。
位置情報
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投稿情報
【カテゴリ】河南省武陟県
【 タグ 】許褚
【公開範囲】都督 大将軍 丞相
【掲載日時】2018年4月22日 21:43
【更新日時】2019年1月13日 08:43
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