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陳羣の祖父である陳寔の故里、現在は陳故村となっている。
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石碑には「陳寔故里」と刻まれている。
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文物碑: 1991年12月6日公布 長葛県人民政府文物保護単位「陳寔故里」
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基本情報
ちょこっと解説
陳寔、字は仲弓。豫州潁川郡許県(現在の河南省長葛市古橋郷陳故村)の人。三国魏の陳羣の祖父。太丘長を勤めたことから、陳太丘とも称される。延熹九年(西暦166年)の党錮之禍により禁錮され、官を辞して故郷で隠居する。故郷の人々は清廉潔白な陳寔の人柄を慕い、争い事があれば陳寔に判断を願う。陳寔が判断を下せば、人々は従い、怨むこともなかった。党錮之禁が解けた後、朝廷は幾度となく陳寔を召し出そうとするが、陳寔は固辞。中平四年(西暦187年)に病のため逝去。大将軍何進が祭儀を命じ、参列者は3万人を超えたとされる。中郎将蔡邕が自ら碑文を書し、大将軍何進から「文範先生」と謚された。
探訪後記
バスを降りたところに陳寔故里の碑があったので、それはそれだけで満足してしまっていた。開封太郎さんと車窓から見えた、陳寔墓の方へ向かって村の中を歩いていると、また陳寔故里の石碑があった。こっちの方が立派で文物碑もある。どうやらここが本当の場所らしい。小河の畔で二人、写真を撮ったりしていると、ガキどもが不思議そうな顔でこっちをみていた。陳寔は後漢末期の人物で、三国志とはそれほど関連があるわけでもない。正史には、孫の陳羣の伝で名前が出てくるくらいだ。それでも墓もあるし、遺跡としてはかなり楽しめる場所だった。
位置情報
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