こちらは防爆廠の裏側。文物碑があるが畑になってしまっている。
こちらは公園内の宛城望仙台遺址。現在は整備され綺麗になっているとのこと。
文物碑: 1963年6月20日公布 河南省文物保護単位「宛城遺址」
ちょこっと解説
漢建安二年(西暦197年)、曹操が荆州を攻略後、宛城張繍の降服を受け入れ入城する。しかし、張繍の叔父の妻である鄒氏を納めたことにより、張繍は造反し、賈詡の計略を用いて曹軍を襲撃した。曹操は愛将典韋、長男の曹昴、甥の曹安民などを失うなど手痛い敗北を喫している。
宛城遺址、宛城は西周申伯国から建設が始まった。漢代の城の周囲は約15km。現在は宛城の東北角部分など一部が残るのみ。東北角は現在の防爆電気研究所付近で、城壁跡が長さ数百メートル、高さ5m程度で残っており、漢代の陶器片などが大量に出土している。また人民公園内には望仙台という高台建築跡が残っており、高さ約9mの土台がある。こちらからも漢代の陶器片や煉瓦が大量に出土している。
宛城遺址、宛城は西周申伯国から建設が始まった。漢代の城の周囲は約15km。現在は宛城の東北角部分など一部が残るのみ。東北角は現在の防爆電気研究所付近で、城壁跡が長さ数百メートル、高さ5m程度で残っており、漢代の陶器片などが大量に出土している。また人民公園内には望仙台という高台建築跡が残っており、高さ約9mの土台がある。こちらからも漢代の陶器片や煉瓦が大量に出土している。
探訪後記
宛城遺址、大きな街の中で古代の城跡を探すのはなかなか大変だ。明代くらいならいいのだが、漢代だからなあ。それにもう20年も早ければ、もうちょっといい形で残っていたのだろうけども。ネットでいろいろと調べてみると、宛城遺址の文物碑は数カ所にあるらしい。その中で分かり易かったのは防爆廠付近の一ヶ所、もう一つは人民公園内の望仙台だ。どちらとも文物碑がなければ何が何だか分からない状態。周辺になにもなければ盛り上がった土が城壁だったんだなとわかるのだけれども。まあ、今でもこうやって多少なりとも残っているだけでも、ありがたいことなんだろうな。ちなみに宛城の宛は、以前はyuanの一声、現在はwanの三声とどちらでもよいそうだ。
位置情報
在野の士であるあなたはこの位置情報を閲覧できません。仕官申請しますか。
いいね! 175