「漢蔡中郎墓」の石碑。後の建物は蔡邕祠だったらしい。
外見は、開封桃花洞にある石碑とよく似ている。
石碑後方にある小さな塚。1997年に調査され、墓室の存在が確認されている。
文物碑: 尉氏県文物保護単位「蔡邕墓」
基本情報
ちょこっと解説
蔡邕、字は伯喈。兖州陳留郡陳留県(現在の河南省開封県陳留鎮)圉の人。東漢文学家、書法家。中平六年(西暦189年)漢霊帝崩御後、董卓が司空となり、名高い蔡邕のことを聞きつける。董卓は蔡邕を高く評価し、僅か3日間で御史、持書御史、尚書と昇格させ、巴郡太守、侍中となる。初平元年(西暦190年)には左中郎将を拝したことから、後に蔡中郎と称されることとなる。董卓は蔡邕を尚父と呼び敬った。董卓が王允等によって誅殺されると、蔡邕は董卓の死を悼む。王允は、蔡邕の博識を惜しみ漢史の編纂を続けさせようと考えたが、大尉馬日磾の反対により、蔡邕は獄死することとなった。
蔡邕墓、「漢蔡中郎墓」の石碑と塚が残されている。塚の傍らには蔡邕祠だった建物が残されており、以前は蔡邕像が祀られていたが、1950年代に破壊された。祠の外に立てられていた石碑などは水利施設の建設に転用されてしまった。
蔡邕墓、「漢蔡中郎墓」の石碑と塚が残されている。塚の傍らには蔡邕祠だった建物が残されており、以前は蔡邕像が祀られていたが、1950年代に破壊された。祠の外に立てられていた石碑などは水利施設の建設に転用されてしまった。
探訪後記
蔡邕故里と言われている蔡庄鎮を訪れたときに、蔡さんと話をしていると、大朱村に墓が残っていると教えられた。ネットで調べているときにもそれらしきことが書かれていたのだが、確証を持てるだけの記述ではなかったので、行こうか行くまいか迷っていたのだ。しかしあるということなら、行ってみなければならない。蔡庄鎮からは数km。歩いていくことにした。村に到着して人民に聞き込みをすると、みな知っていた。墓に到着。ちゃんと土盛りもあるし、墓碑も立てられている。手作り風の文物碑がなんとも。隣の朽ち果てた建物は蔡邕祠だったそうな。ま、なかなかいい感じの墓だ。そして帰りは長葛市南席鎮から帰ることにした。南席から許昌へ戻るバスがあることは知っていた。わざわざ尉氏まで戻ることもないしね。
関連遺址
蔡邕墓碑
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