2005年11月の麦城遺址。
2013年3月の麦城遺址。植林されて分かりにくくなってきている。
文物碑: 1991年11月30日公布 当陽市重点文物保護単位「麦城遺址」
ちょこっと解説
漢建安二十四年(西暦219年)、曹軍の曹仁が守る樊城に侵攻した関羽は、于禁を捉え、龐徳を斬るなどの戦功をあげ、曹操を慌てさせる。しかし曹操が密かに孫権と通じて、呉軍が動き出す。孫権は呂蒙を派し、荆州南郡を奪い返す。荆州を奪われ、留守を託した麋芳や士仁は呉に降り、それを知った関羽は狼狽、さらには曹軍の徐晃の猛攻に遭い、手負いの関羽は敗走、麦城へ逃げ込む。援軍の要請を受けた上庸の孟達も曹軍に寝返り、もはや敗色濃厚となった関羽は、麦城を出て襄陽へ向かおうとするが、呉の潘璋に捉えられてしまうこととなる。
麦城遺址、沮漳の2つの流れの間に、春秋時代の楚昭王が築いたとされる城。現在は沮水の河畔に城壁跡が僅かに残るのみ。
麦城遺址、沮漳の2つの流れの間に、春秋時代の楚昭王が築いたとされる城。現在は沮水の河畔に城壁跡が僅かに残るのみ。
探訪後記
2005年に訪れたときには、たどり着くまでかなり苦労した場所だった。あの頃は小さな村まで記された地図がほとんどなく、遺跡を探す前に村へたどり着くまでもが大変だった。人民たちが外で農作業をしている時期は、道を聞いたりできる。もし人民を見かけなかったら、諦めるしかなかっただろうな。まあ、苦労した分思い出深い場所になるのだが。そして2013年に再び訪れてみる。もちろん2度目ということもあるのだが、スマホの百度地図があるので、村の位置もほとんどわかる。でもさすがに8年という年月が経過すると、まわりの景色が記憶の中のものと違ってくる。麦城遺址も農地の中にポツンとあったという記憶なのだが、今では民家の近くの林の中。たぶん遺址を保護するために植林が進められているのだろう。樹が育ってくるとなかなか写真が撮りづらくなってくるんだよな。
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