かなり小さな橋が残されている。たぶん一部分だろう。
麋夫人が阿斗を抱いて隠れたとされる場所。
ちょこっと解説
三国演義、第四十一回「劉玄徳携民渡江、趙子龍単騎救主」で、建安十三年(西暦208年)に曹操が北方を統一した後、その勢いで南方へも侵攻する。江陵の劉備は抵抗することもできずに退却逃亡。当陽の景山で野営中に曹操軍に包囲され混乱に陥る。劉備の糜夫人は、子の阿斗を抱いて逃げまどい、玉陽橋の下で身を隠していた。その後、趙雲が糜夫人たちを発見するが、糜夫人は阿斗を趙雲に託し、自らは井戸に投身する。
長坂坡に青レンガで作られた玉陽橋という独孔拱橋があった。清代末期、当地の人間達が三国演義中で趙雲が阿斗を助ける故事に結びつけ、太子橋と名前を変えたとされる。
長坂坡に青レンガで作られた玉陽橋という独孔拱橋があった。清代末期、当地の人間達が三国演義中で趙雲が阿斗を助ける故事に結びつけ、太子橋と名前を変えたとされる。
探訪後記
もともと麋夫人と阿斗が隠れた橋ではないそうだが、そこはどうにでもなってしまうのが、三国演義の恐ろしいところ。物語の名場面は本当のこととなって造られてしまうのだ。実際にこの橋を見てみると、まあ、麋夫人くらいなら隠れることができるのかもしれないなあ。でもこの橋はもうちょっと大きかったよね。そうじゃないと橋の下はかなり狭いから、匍匐しないと無理じゃないか。
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