禰衡墓、元は鸚鵡洲にあったが、2000年に亀山麓にて再建される。
清光緒二十六年(西暦1900年)の「漢処士禰衡墓」の石碑。
禰衡の代表作「鸚鵡賦」のレリーフ。
文物碑: 1983年4月7日公布 武漢市文物保護単位「禰衡墓」
基本情報
ちょこっと解説
禰衡、字は正平。青州平原郡般県(現在の山東省臨邑県徳平鎮)の人。東漢末期の名士で文学家。孔融と交友があった。文才はあったが高慢な性格であったため多くの人間から疎まれた。曹操への仕官も断っている。許にいたが、曹操に体よく劉表の元へ送られた。劉表に対しては不遜な態度をとることもなく、文才を発揮していたが、劉表の部下たちには高慢な態度をとり続けたために、讒言によって遠ざけられる。後に黄祖の息子である黄射と友となり、黄祖とも交わりを持つようになるが、高慢な性格が災いし、建安三年(西暦198年)黄祖によって殺害される。
禰衡墓、黄祖は禰衡を殺害したことを悔い、江夏長江に浮かぶ沙洲上に墓を建て埋葬する。後にこの沙洲は禰衡の詠んだ詩「鸚鵡賦」にちなんで鸚鵡洲と称されるようになる。明代末期には長江の流れの変化により、禰衡墓はこの鸚鵡洲とともに川底へ沈んでしまう。清乾隆年間に漢陽知県裘行恕が新しくできた沙洲を鸚鵡洲と命名。清光緒二十六年(西暦1900年)には漢陽知県余肇慶が鸚鵡洲上に禰衡墓を再建している。1960年代には墓碑のみが残るだけになってしまったが、2000年に漢陽区文体局によって亀山麓で再建されている。
禰衡墓、黄祖は禰衡を殺害したことを悔い、江夏長江に浮かぶ沙洲上に墓を建て埋葬する。後にこの沙洲は禰衡の詠んだ詩「鸚鵡賦」にちなんで鸚鵡洲と称されるようになる。明代末期には長江の流れの変化により、禰衡墓はこの鸚鵡洲とともに川底へ沈んでしまう。清乾隆年間に漢陽知県裘行恕が新しくできた沙洲を鸚鵡洲と命名。清光緒二十六年(西暦1900年)には漢陽知県余肇慶が鸚鵡洲上に禰衡墓を再建している。1960年代には墓碑のみが残るだけになってしまったが、2000年に漢陽区文体局によって亀山麓で再建されている。
探訪後記
ネット上では有名な文章「三国人物、埋骨何方」にも紹介されているのだが、誰かが訪れたという話を聞かない。武漢という大きな街にあるのだが、その文章にはけっこう具体的な場所が記述されているのにもかかわらずにだ。かく言う私もその文章、「鸚鵡湖湖心島上、今湖心島上墓為新建」と書かれたとおり、鸚鵡湖の位置を調べていた。そこに墓が新しく建て直されているのだろうと。しかし、よくよく調べていると禰衡墓は、島上にあるのではなく、2000年に漢陽区文化部門によって別の場所で再建されたことがわかった。その場所は魯粛墓に近い亀山麓だったのだ。これでだいたいの位置がわかった。さっそく訪れてみることにする。建橋新村まではあっさりと到着。人民たちに「禰衡墓がこの辺りにあるらしいんだけど」と聞いてみるが、「知らんな。そんなものはないぞ」との答え。仕方ないので、そこから亀山麓へ向かって歩いていく。建橋新村の建物の裏には石段があり、公園と言うほどのものではないが遊歩道のようになっている。石段を登って探し回る。あった、雑草にまみれているが禰衡墓だ。写真を撮るために邪魔な雑草は処理する。ふふふ、また一つ墓に到達したぞ。
位置情報
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