正殿には丁奉、徐盛、潘璋が祭られている。
靖江王廟の正殿前。靖江王とは丁奉のこと。
廟の近くには「三国古遺址」の石碑も立てられていた。
廟の前にあった「東呉駐軍遺址」の碑文。
基本情報
ちょこっと解説
丁奉、字は承淵。揚州廬江郡安豊県(現在の安徽省霍邱県)の人。勇猛な部将で、戦場では数々の武功をあげている。孫亮が帝位につくと冠軍将軍都亭侯に封ぜられた。孫皓の時代になり、呉宝鼎四年(西暦269年)、建衡元年(西暦269年)に晋を攻撃するが戦果を挙げられず、孫皓の怒りを買う。
靖江王廟、もとは丁公祠と呼ばれていた。唐代安史之乱、張巡が睢阳を守備、そのときに丁奉の霊が顕れて謀反軍を破る助けをしたとされ、張巡は粛宗に奏した。そして唐上元元年(西暦760年)に丁奉は龍虎将軍に加封され、廟が建立された。その後、宋紹興年間に高宗が金兀術に追い詰められ、陸渓の対岸に至る。高宗は舟に乗り長江を渡るが、大荒れとなって舟が転覆しそうになる。すると突然二つの銀球が波を打ち、荒れが収まった。難を逃れた高宗は、付近の民に聞くと「対岸にある丁奉の祠がある。今日は丁奉の生まれた日、それで丁奉が顕れて、お守りしたのでしょう」と答えたとされる。高宗は丁公祠に参り、丁奉像の手に二つの鉄弾があることを知ると、丁奉を靖江王に封じる。その後、丁公祠は靖江王廟となったとされる。
靖江王廟、もとは丁公祠と呼ばれていた。唐代安史之乱、張巡が睢阳を守備、そのときに丁奉の霊が顕れて謀反軍を破る助けをしたとされ、張巡は粛宗に奏した。そして唐上元元年(西暦760年)に丁奉は龍虎将軍に加封され、廟が建立された。その後、宋紹興年間に高宗が金兀術に追い詰められ、陸渓の対岸に至る。高宗は舟に乗り長江を渡るが、大荒れとなって舟が転覆しそうになる。すると突然二つの銀球が波を打ち、荒れが収まった。難を逃れた高宗は、付近の民に聞くと「対岸にある丁奉の祠がある。今日は丁奉の生まれた日、それで丁奉が顕れて、お守りしたのでしょう」と答えたとされる。高宗は丁公祠に参り、丁奉像の手に二つの鉄弾があることを知ると、丁奉を靖江王に封じる。その後、丁公祠は靖江王廟となったとされる。
探訪後記
ここは道観になっているようで、訪れると私と同じ年代の道士さんが出てきた。この道士さんは親切で、いろいろと説明をしてくれる。廟のすぐ横に関帝廟もあるのだが、この道士さんは「ここになぜ関羽が祀ってあるのか。それはここが単刀赴会の場所だったからだよ」と言う。よく知られているのは益陽の単刀赴会処なのだが、ここにもそういう言い伝えが残っているということか。廟内では地元のおばあちゃんたちが何やら作業をしている。道士さんにお茶をご馳走になり、日本のことなど話をする。最後に記念に記帳してくれと頼まれた。名前と何か一言と言われたのだが、私は気の利いた言葉を書けない人なのだ。もうちょっと努力をしなければな。
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