三国演義中の創作だが、名場面としてその場所がある。
現在の長閑な風景。釣りをしている人民が多い。
岩肌にある「取箭所」の文字。
基本情報
ちょこっと解説
三国演義、第四十六回「用奇謀孔明借箭、献密計黄蓋受刑」で、草船借箭の舞台となった場所とされる。周瑜が諸葛亮に十日以内で十万本の箭を造ることを要求。諸葛亮は三日以内に十万本の箭を揃えると答える。諸葛亮は魯粛に舟の用意を依頼、魯粛を携えて曹操の陣へ入っていく。濃霧の中、出陣を躊躇した曹操は、諸葛亮らが乗る舟に向かい箭を雨のように射る。舟には藁を束ねた柱を立て青布で覆ってあり、射られた箭が無数ささる。こうして諸葛亮は期限内に十万本の箭を揃えることに成功した。
正史では諸葛亮のこうした行動は記載されておらず、三国演義の作者、羅貫中の創作だとされる。この故事の元となったと思われるのは、建安十八年(西暦213年)の曹操と孫権による濡須之戦での出来事だと考えられている。孫権は自ら舟に乗り偵察に曹操の陣へ。曹軍は箭を雨のように降らせ、孫権の乗る舟は片側に刺さった箭の重さで傾き転覆しそうになる。そこで孫権は舟の向きを変え、舟の逆側に箭が刺さるようにしたことで転覆を免れている。濡須は現在の安徽省無為県のあたり。こちらの取箭所とは関係がない。
正史では諸葛亮のこうした行動は記載されておらず、三国演義の作者、羅貫中の創作だとされる。この故事の元となったと思われるのは、建安十八年(西暦213年)の曹操と孫権による濡須之戦での出来事だと考えられている。孫権は自ら舟に乗り偵察に曹操の陣へ。曹軍は箭を雨のように降らせ、孫権の乗る舟は片側に刺さった箭の重さで傾き転覆しそうになる。そこで孫権は舟の向きを変え、舟の逆側に箭が刺さるようにしたことで転覆を免れている。濡須は現在の安徽省無為県のあたり。こちらの取箭所とは関係がない。
探訪後記
とにかくここは大苦戦。知っている人民がかなり少ない。「そんな場所はない」「陸渓口にあるだろう」など当てにならない答えばかりが返ってくる。まったく手がかりが得られないので、暇そうだった公安にも聞いてみる。いつものごとく「なぜ、そんなところへ行くんだ」と聞かれる。しかし、この公安も知らない。ちょうど建物の中に嘉魚の市街地図があったので見せてもらう。この地図でだいたいの場所に目星をつけて行ってみることにした。途中、やっと知っている人民に遭遇。農作業をしていたおっちゃんが「あぁ、わしの知り合いがあそこの崖で何か文字を彫ったと聞いた」と教えてくれた。さっそく行ってみるが見つからない。場所的にはもうここしかないと言うところなのだが。もう一度、おっちゃんに聞いてみる。やはり間違いなくあるらしい。再度行ってみる。崖の横には砂が山のように積まれている。そこを歩いていると「取」の文字が見えた。これだ。汗だくになりながら文字を掘り出す。そして河で水を汲み砂を洗い流す。やっと見つけたぞ。かなり疲れた。これは反則じゃないか。
位置情報
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