1992年に博物館によって複製再現された碑が残る。
近隣の民家が崩れ、墓碑も残骸の下敷きに。
本来の墓碑は、この橋を造るときに利用されてしまった。
基本情報
ちょこっと解説
毛玠、字は孝先。兖州陳留郡平丘県(現在の河南省封丘県)の人。清廉な人柄で知られる。建安十八年(西暦213年)、曹操が魏王に就くが、当時太子がまだ確定していなかった。曹植が恩寵を受けていたが、尚書僕射毛玠は曹操に「袁紹は嫡子庶子を分けずに、自らの滅亡を招きました。太子を立てるのは一大事、長男を廃して他の者を立てるとは、私が聞きたいと望む事ではありません」と、そっと諫める。その後、曹操は席を外した毛玠を見ながら、「彼こそは古くから言う国中正直の士だ。我が周昌である」と感激したとされる。
毛玠墓碑、毛玠は晩年に麻城へ遷ったとされ、清康熙年間に編纂された県誌にも「玠墓在花橋、離県治東十七里」と記載されている。墓碑に刻まれた「万古高風」は魏武帝から賜ったものとされる。墓は歴代の毛氏末裔によって守られてきたが、1958年の大躍進時の道路敷設によって破壊され、その墓石などは橋の造成に流用された。現在は1992年に麻城市博物館によって複製された「魏尚書左僕射毛公諱玠、夫人何氏墓」の墓碑が残る。
毛玠墓碑、毛玠は晩年に麻城へ遷ったとされ、清康熙年間に編纂された県誌にも「玠墓在花橋、離県治東十七里」と記載されている。墓碑に刻まれた「万古高風」は魏武帝から賜ったものとされる。墓は歴代の毛氏末裔によって守られてきたが、1958年の大躍進時の道路敷設によって破壊され、その墓石などは橋の造成に流用された。現在は1992年に麻城市博物館によって複製された「魏尚書左僕射毛公諱玠、夫人何氏墓」の墓碑が残る。
探訪後記
ネットでいろいろと見ていると、この毛玠墓碑の情報を見つけた。毛玠の墓と言えば、許昌の毛丞相墓がよく知られているのだが、そちらの方はすでに消滅している。こちらの墓碑は、更に調べてみると新しく複製された物ではあるが、現存している。古い方は小河の石橋の材料になってしまっているという。新しく複製された物でも、昔と同じように作られているようだし、見ておかなければ。しかし、置かれている場所の建物が崩れて危なくなっているという情報も書かれていた。麻城からバスに乗って進んでいく。どこで降りればいいのかわからないので、花橋河と大きく書かれた看板の前で降ろして貰う。しかし周辺には人民がいない。適当にこっちかなと思って進んでいったのだが、どんどんと山の中へ入っていってしまう。途中、やっと人民がいたので聞いてみる。毛玠墓碑と言っても何が何のことやらわからないようなので、学校は近くにあるかと聞いてみた。すると進んできた方向は違っていたようで、逆戻り。バスを降りたところから更に東に進んでいかなければならなかったようだ。暫く歩いて、やっと花橋河小学の前にたどり着いた。人民に聞いてみると、学校のすぐ裏に墓碑があるとのこと。倒れかけた壁などの下になり、人一人入られるくらいの空間の中で墓碑がひっそりと立っていた。そして、古い方の墓碑も確認できないかと、学校の向かいにある小河まで行ってみる。確かに石橋があるのだが、どの石が墓碑だったのかわからなかった。どちらにしてもこのままではまた消滅してしまいそうで怖い。
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