城壁となった土塁の跡がなんとなく判別できる程度。
魯粛が兵糧を蓄えた場所でもあるので、魯粛糧城とも呼ばれた。
文物碑: 1989年9月公布 蒲圻市重点文物保護単位「太平城」
基本情報
【訪問時期】2013年3月13日
【関連人物】魯粛
【文物保護】1989年9月公布 蒲圻市重点文物保護単位「太平城」
ちょこっと解説
 太平城、戦国時代の城が廃棄されたあと、漢建安十六年(西暦211年)から建設が始まった。孫権の命を受けた魯粛が、長沙、桂陽、零陵の三郡の返還を関羽に求める。しかし関羽は受け入れずに呉軍と対峙することとなり、魯粛は零陵を攻撃する起点として、太平城を築いたとされる。その後、三郡は呉へ返還され、湘水を境とすることとなる。一説では、赤壁之戦前に魯粛がここで兵糧を蓄えたとされ、魯粛糧城とも呼ばれていたとされる。
 太平城遺址、東西750、南北900mの外城と東西300m、南北400mの内城からなる。城壁の高さ3m、厚さ5mの土城。
探訪後記
 近くへ行くバスを探すのに苦労した。新店へ行くバスがあれば近くまでは行けるだろうと思っていたのだが、その新店へ行くバスが見あたらない。赤壁の街の中を探し回って、やっと見つけた。以前の蒲圻客運站から出ていた。新しいバスターミナルが火車站の近くにできているのに、こっちのバスターミナルもまだ使っているのかよ。本当にこういうところは不便だよな。よそから来た人間にはわかりづらい。新店行きのバスは土城村を通過するとのことだったので、土城村で降ろして貰う。そこから人民に聞き込みをして捜索開始。まあ、答えはだいたい「あっちの方」というくらい。進んで近づいていくうちに人民の答えにも変化が。「石碑もある」との答えも。たぶん文物碑だと思うのだが、期待していなかったので、これは嬉しい。しかし、適当に歩いていたのでずっと通り過ぎてしまった。人民が「何それ」という場所にまで来てしまった。また逆戻り。そしてやっと到着。確かに文物碑があった。ちょっと古いし、珍しい縦書き。城跡自体はもう言われなければわからないくらい。人民の墓だらけだし。もうちょっと先の方まで歩いてみると、城壁跡じゃないかなと思われる土盛りが少しだけ続いていた。まあ、これはこれで満足だけれども。
位置情報
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投稿情報
【カテゴリ】湖北省赤壁市
【 タグ 】魯粛
【公開範囲】都督 大将軍 丞相
【掲載日時】2017年4月5日 20:06
【更新日時】2019年1月13日 09:15
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