文昌閣に残された、放曹坡の関羽像。
かなり古くなってしまった関羽像。曹操を睨みつけているのか。
清道光十七年(西暦1837年)に立てられた碑。
近年、大きな関羽像も立てられた。
2017年、大きな関羽像は近くの広場に遷されていた。
2017年、文昌閣の関羽像も補修されていた。清道光の石碑は見当たらない。
ちょこっと解説
三国演義、第五十回「諸葛亮智算華容、関雲長義釋曹操」の舞台となった場所とされる。赤壁の戦いで惨敗を喫した曹操は、数少ない兵士と共に江陵へ落ち延びようとする。孫権と劉備の軍に追撃を受けながらも、近道となる華容道を進んで行く。悪路が続く華容道で苦難の連続、兵士たちもどんどんと気力を喪失していく。そこに現れたのが武勇名高い関羽である。すでにまともな装備さえも失った兵士たちを連れた曹操もついに観念を決めたが、家臣程昱が、官渡の戦い以前に関羽が曹操のもとで庇護を受けていたことを話せば、恩義を忘れない関羽なら逃してくれるだろうと提言する。曹操はそれに従い関羽に請うと、関羽は曹操を逃す。
三国演義による虚構なのだが、文昌閣前に関羽像が立てられ、その台座には放曹坡と書かれ、その前には清道光十七年(西暦1837年)の石碑が立てられている。また近年、新しい関羽像も設置され、三国文化の一部分として盛り上げようとされている。
三国演義による虚構なのだが、文昌閣前に関羽像が立てられ、その台座には放曹坡と書かれ、その前には清道光十七年(西暦1837年)の石碑が立てられている。また近年、新しい関羽像も設置され、三国文化の一部分として盛り上げようとされている。
探訪後記
2009年に掲示板で赤兎さんから情報を貰っていたのだが、なかなか訪れる機会もなかった。2013年にやっと再び湖北省を巡ることができたので、ここも訪れることができた。バスターミナルで毛市までのチケットを買って、毛市を通過するバスに乗り込んだ。乗り込むときに車掌が「どこへ行くんだ」と聞いてきたので、「放曹坡へ行くつもり」と答える。すると車掌が「放曹坡、知らないな。ちょっと誰かに聞いてみる」と電話をかけ出した。しばらくすると「このバスは放曹坡へ行かないから降りろ」と言い出す。おらとしてはもともと毛市まで行って、そこから探そうと思っていたし、別にバスで直接行こうとなんて思ってもいない。「毛市まで行ければいいんだよ」と言って、そのまま出発した。そして毛市に到着。バスを降りた場所で辺りを見渡すと、何やら関羽らしき像が目に入る。すぐに近くまで行ってみるとやっぱり関羽像だった。台座には放曹坡と刻まれている。でもこれは新しい関羽像だ。中国サイトで見た写真の関羽像とは違う。近くにいた人民に「古い方の関羽像はどこにあるの」と聞いてみると、文昌閣の方にあると言う。しばらく道を聞きながら進んでいくと、文昌閣に到着。お寺の脇にあった。古い関羽像もしっかりと残っていたし、台座には消えかかった放曹坡の文字。その前には清代の石碑も立てられていた。百度で調べると木の多い茂った小高い丘のような写真が載っているのだが、小さい画像なのではっきりと確認できない。もしかしたらこの丘が本来の放曹坡の場所なのかもしれないのだが、人民に聞いてみても「放曹坡の農家楽へ行きたいのか」という答えしか聞けなかったので探さなかった。まあ、今回は関羽像だけで我慢しよう。
位置情報
在野の士であるあなたはこの位置情報を閲覧できません。仕官申請しますか。
いいね! 257