韓玄墓近景。
墓碑には「漢忠臣韓玄之墓」と刻まれている。
基本情報
【訪問時期】2008年10月19日
【関連人物】韓玄
【文物保護】2014年6月14日公布 長沙市文物保護単位「韓玄墓」
ちょこっと解説
 韓玄、荆州長沙郡の太守。赤壁の戦いの後に、劉備が荆州刺史として劉琦を推し、南方の四郡を攻略すると、韓玄は劉備の下に降った。その後、韓玄は依然として長沙太守を務めるが、黄忠の下で蜀の官員となったとされる。
 韓玄墓、韓玄はいつどこで亡くなったかはわかっていないが、墓は長沙に残されている。文革時に破壊されたが、1984年に再建された。2010年6月には長沙市不可移動文物点に指定され、2014年6月には長沙市文物保護単位となっている。長郡中学内にあるため、普段は立ち入ることができない。
探訪後記
 韓玄、三国演義ではパッとしない小悪人的な存在なのだが、長沙に彼の墓が残されていることは、けっこう有名な話だし、ここを訪れた人も多い。もちろん私もあるモノはこの目で見たいので訪れた。しかし、遺跡探訪で一番苦労するのは、山中の遺跡でもド田舎の遺跡でもない。それは学校の敷地内にある遺跡なのだ。近年こんなご時世、大きな街にある学校には必ずと言っていいほど守衛がいる。そして、彼らに中へ入れて欲しいと頼んでも拒否されることが一般的なのだ。しかし、ここで引き下がっては遺跡を見ることは不可能、なんとか彼らに頼み込んで許可してもらうしかないのだ。私も「ここに韓玄墓があるでしょう、見せてもらえない」と頼む。守衛は「ダメ。ここは学校だから入れられない」とあっさり拒否。私もこれくらいでは引き下がらない。「そんなこと言わないでさ、ここを見るために日本から来たんだよ。ほら、パスポートもあるし、登記が必要ならするからさ」と頼み込む。守衛の一人はダメの一点張り。それでも私も諦めない。もう一人いた守衛のおっさんが「わかった、わしが案内してやるよ。でも本当はダメなんだぞ」と中へ案内してくれた。確かに守衛からすれば迷惑な話だろうな。しかし、おっちゃん守衛は気のいい人が多く、きちんとお願いすれば、向こうも無碍には断れなくなるようだ。さて韓玄墓に到着。意外と小さな墓、そして「忠臣」の文字。韓玄は、あの世でこの扱いをどう思っているのだろうか。守衛のおっさんたちにお礼を言い、ここを後にした。
位置情報
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投稿情報
【カテゴリ】湖南省長沙市
【 タグ 】韓玄
【公開範囲】都督 大将軍 丞相
【掲載日時】2016年7月27日 20:10
【更新日時】2019年1月12日 22:04
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