残っている青磚の城壁は清代のもの。現在は魯粛巷という路地。
南城壁は堤防としても機能したので魯粛堤とも言われる。
文物碑: 1997年11月24日公布 益陽市文物保護単位「益陽古城城墻遺址」
基本情報
ちょこっと解説
漢建安年間、呉と蜀は益陽で兵をとどめて対峙する。そして関羽が青龍刀を携え、単独呉の魯粛のもとを訪れて協議。魯粛は資江北岸へ陣を遷して城を築き、その城は魯粛城と呼ばれるようになった。後に城は荒廃したが、城壁はそのまま堤防として使われ、魯粛堤とも呼ばれるようになった。現在の城壁跡は清乾隆三十年(西暦1765年)から青磚を用いて修復されたもの。東門の魯粛巷あたりからは北へ城壁跡の土盛りが延びている。
探訪後記
単刀赴会処のすぐ北側にある。レンガの城壁は清代のものらしいが、そのもとになったものは魯粛が築いた土城だそうだ。魯粛巷の看板から北の方へ行くと、小高い土盛りが延びていて、城壁跡を思わせる。益陽は以前から訪れる三国遺跡マニアが多かったが、開発修復がされていなかったため、それほどいい成果を残せていなかった場所。やっと当時を思い起こしやすいような感じになってきたのかもしれない。それでも過度に開発されると、それはそれで嫌なのだが。
位置情報
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