谷朗墓の前に残る石柱。
修復されていないため、封土の方が凹んでいる。
墓に残る穴。盗掘の跡のようだ。
基本情報
ちょこっと解説
谷朗、字は義先。荆州桂陽郡耒陽県馬水(現在の湖南省耒陽市)の人。呉に出仕、郎中尚書令史、瀏陽県令、都尉尚書部、広州督軍校尉、大中正大夫などを歴任。呉永安六年(西暦263年)交州交趾郡吏の呂興が反乱を起こす。谷朗は呉建衡元年(西暦269年)に軍を率いて交趾郡へ進軍し呂興の討伐に成功、交趾郡は降服、九真郡、日南郡も帰順する。その後、谷朗は九真太守となる。呉鳳凰元年(西暦272年)に病死。耒陽にて葬られている。
谷朗墓、谷朗は、死の間際に故郷にて埋葬するようにと遺言している。そのため死後三ヶ月以上の時間をかけて、故郷である耒陽に遺体が運ばれ、埋葬されたとされる。墓は楕円形で、花崗岩を用いて封土が囲まれており、直径は約6m。墓前には無字碑が立てられており、墓の後ろには大きな岩がある。現在、墓にある穴は盗掘の跡。
谷朗墓、谷朗は、死の間際に故郷にて埋葬するようにと遺言している。そのため死後三ヶ月以上の時間をかけて、故郷である耒陽に遺体が運ばれ、埋葬されたとされる。墓は楕円形で、花崗岩を用いて封土が囲まれており、直径は約6m。墓前には無字碑が立てられており、墓の後ろには大きな岩がある。現在、墓にある穴は盗掘の跡。
探訪後記
谷朗墓、耒陽は何度か訪れているものの、なかなか到達できなかった。2013年11月には、百度地図を見て、新市鎮と亮源郷の間に谷家坳という地名を見つけて訪れるも、まったく関係のないところだった。そして今回、湖南省長沙から福建省漳州へ移動するときにもう一度立ち寄った。列車時刻の関係で約6時間の滞在。亮源郷へ行くバスはあるのだが、本数が少ないので、今回はタクシーでぶっ飛ばすことにした。耒陽西火車站の前で声をかけてきた運転手、顔を見るとちょっと頭がよさそう。「亮源郷の谷朗墓へ行きたい」と行ってみると、意外にも知っているとのこと。実は地図を見て、谷朗墓が載っていることは知っていたのだ。少なくとも存在していることをわかっている運転手なら、間違いないだろう。この運転手の車に乗って亮源郷睦村へ向かった。睦村までは問題なく到着。運転手が地元人民に聞き込みをする。でも普通話で聞いても地元民には通じない。でも運転手は地元なので方言で聞き込み。するとすぐに場所がわかった。しかし、近くへ行ってみると似たような山ばかりで、具体的な場所がわからない。また運転手が聞き込みをするが、人民オヤジは「知らない」と言うだけ。運転手がさらに聞くと、その人民オヤジがやっと場所を教えてくれた。どうやら以前盗掘されたので、場所を教えたくない地元人民がいるようだ。そしてなんとか谷朗墓に到達。運転手も興味津々で眺めている。この運転手、けっこう歴史に興味があるようで、運転中もいろいろと話をした。こんな運転手がいると、遺跡巡りも楽しいものになるよな。やる気なしの金金運転手だと嫌になるけどね。
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