「後漢行都護衛将軍平尚書事諸葛瞻子尚之墓」の墓碑。諸葛瞻と諸葛尚の墓。
諸葛瞻と諸葛尚、張遵、黄崇、李球ら5人の塑像。
蜀漢三叛石雕跪像も置かれている。糜芳と士仁、郝普らの石像。
祠入口に掲げられた扁額。
祠の入口。「忠」と「孝」の二文字。
文物碑: 1986年5月11日公布 綿竹県重点文物保護単位「諸葛双忠墓祠」
2008年の四川大地震後の様子。墓碑にも亀裂が入っていた。
2018年に訪れたときの様子。諸葛瞻と諸葛尚の肖像画に変わっていた。
こちらは孔明の「誡子書」。
後方に建てられた啓聖殿。内部には孔明と黄夫人の像などが並ぶ。
張遵、黄崇、李球の霊位も祭られていた。
基本情報
ちょこっと解説
蜀漢大臣諸葛瞻、字は思遠。琅邪国陽都(現在の山東省沂南県)の人。諸葛亮の長男。諸葛双忠墓祠は、諸葛瞻とその子、諸葛尚の衣冠墓である。蜀景耀六年(西暦263年)に、魏征西将軍鄧艾が蜀伐の軍を江油関城(現在の四川省江油市)まで進める。諸葛瞻は軍を率いて綿竹で応戦する。鄧艾は諸葛瞻へ使者を送り降伏を勧めたが、諸葛瞻は使者を斬り決戦を挑む。しかし多勢に無勢、諸葛瞻親子は討ち死にする。
諸葛双忠墓祠内の墓は、封土の高さ約3m。いつ頃に造成されたものかはわかっていない。墓前には清康熙六十一年(西暦1722年)、綿竹邑令陸箕永によって立てられた石碑があり「後漢行都護衛将軍平尚書事諸葛瞻子尚之墓」と書されている。その後、清乾隆三年(西暦1738年)から祠の建築が始まる。清乾隆二十五年(西暦1760年)に忠孝門、清道光七年(西暦1827年)には拜殿などが建てられた。墓の後、正殿には諸葛瞻と諸葛尚、張遵、黄崇、李球の5人、啓聖殿には諸葛亮が祀られていた。
しかし1980年代には、祠は僅か拜殿だけとなる。1985年7月、綿竹県(現在の四川省綿竹市)人民政府が諸葛双忠墓祠を県級重点文物保護単位に指定。1986年5月に忠孝門を再建。拜殿を修復し、内部には大型の塑像を設置した。「魂壮綿竹関」と題された塑像は、諸葛瞻と諸葛尚、張遵(張飛の孫)、黄崇(黄権の子)、李球(李恢の甥)の5人の最後の戦いを表現している。またその前には、関岳廟から出土した明代の蜀漢三叛石雕跪像、糜芳と士仁、郝普の石像3体が置かれている。
諸葛双忠墓祠内の墓は、封土の高さ約3m。いつ頃に造成されたものかはわかっていない。墓前には清康熙六十一年(西暦1722年)、綿竹邑令陸箕永によって立てられた石碑があり「後漢行都護衛将軍平尚書事諸葛瞻子尚之墓」と書されている。その後、清乾隆三年(西暦1738年)から祠の建築が始まる。清乾隆二十五年(西暦1760年)に忠孝門、清道光七年(西暦1827年)には拜殿などが建てられた。墓の後、正殿には諸葛瞻と諸葛尚、張遵、黄崇、李球の5人、啓聖殿には諸葛亮が祀られていた。
しかし1980年代には、祠は僅か拜殿だけとなる。1985年7月、綿竹県(現在の四川省綿竹市)人民政府が諸葛双忠墓祠を県級重点文物保護単位に指定。1986年5月に忠孝門を再建。拜殿を修復し、内部には大型の塑像を設置した。「魂壮綿竹関」と題された塑像は、諸葛瞻と諸葛尚、張遵(張飛の孫)、黄崇(黄権の子)、李球(李恢の甥)の5人の最後の戦いを表現している。またその前には、関岳廟から出土した明代の蜀漢三叛石雕跪像、糜芳と士仁、郝普の石像3体が置かれている。
探訪後記
2003年に一度訪れているのだが、今回は汶川地震の被害状況も確認するために再訪してみた。5月の地震で綿竹でもかなりの死傷者が出たのだが、9月に訪れたときにも倒壊した建物が見られ、また仮設住宅もちらほら見られた。諸葛双忠墓祠も被害は免れなかったようで、拜殿の瓦葺きの屋根は一部が崩れ落ち、墓前の石碑は上下に割れてズレが生じていた。校舎は地震後に避難場所となっていたらしいが、校舎自体は崩壊していた。ただ校舎は地震後に解体したものと思われる。瓦礫が散乱しており、見学はできたものの地震被害が酷かったことを思い知らされる状態だった。その後のニュースでは、江蘇省文物部門の支援で復旧作業が行われるそうだ。一刻でも早い復旧を望む。
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