当時残されていた黄忠祠の側殿だと思われる建物。
基本情報
ちょこっと解説
蜀漢大将。黄忠、字は漢升。南陽郡(現在の河南省南陽市)の人。謚は剛侯。建安二十五年(西暦220年)に病死。三国演義では戦死となっている。
清道光五年(西暦1825年)に鶏矢樹(現在の黄忠村)で、四川省双流県の人、劉沅が成都西郊外で購入した耕地で、耕作人が「黄剛侯諱漢升之墓」の墓碑などを発見した。この墓碑には間違いがあり、「諱漢升」の部分は本来ならば「諱忠字漢升」と記さなければならない。このことからこの墓碑は、三国時代のものではないと思われる。しかし、劉沅は地元名士に資金を募り、黄忠墓を再建、傍らに黄忠祠を建築し、黄忠の塑像を祀った。1965年、道路整備のために黄忠墓は掘り起こされ、墓の周りの柏も切り倒された。また、その後の文革で黄忠祠も黄忠墓も徹底的に破壊された。現在は再開発で住宅街となり、何一つ残っていない。
清道光五年(西暦1825年)に鶏矢樹(現在の黄忠村)で、四川省双流県の人、劉沅が成都西郊外で購入した耕地で、耕作人が「黄剛侯諱漢升之墓」の墓碑などを発見した。この墓碑には間違いがあり、「諱漢升」の部分は本来ならば「諱忠字漢升」と記さなければならない。このことからこの墓碑は、三国時代のものではないと思われる。しかし、劉沅は地元名士に資金を募り、黄忠墓を再建、傍らに黄忠祠を建築し、黄忠の塑像を祀った。1965年、道路整備のために黄忠墓は掘り起こされ、墓の周りの柏も切り倒された。また、その後の文革で黄忠祠も黄忠墓も徹底的に破壊された。現在は再開発で住宅街となり、何一つ残っていない。
探訪後記
黄忠祠遺址は多くの書籍などの記載には、何一つ残っていないとなっている。しかし、黄忠村で村人に話を聞くと、知っている人は写真の建物が黄忠祠だったと言う。建物は崩壊寸前で、中はゴミだらけ。唯一、祠だったのではと思わせるのは、入口付近のひさしを支える木に彫刻がはいっていることだ。再生復活を望む。
現在は、Google Mapsの周辺地図を見てもわかるように、地区再開発のために完全に整地されて何一つ残っていないようだ。成都は比較的に三国遺跡を再整備している方なので、黄忠祠も復活させて欲しい。
現在は、Google Mapsの周辺地図を見てもわかるように、地区再開発のために完全に整地されて何一つ残っていないようだ。成都は比較的に三国遺跡を再整備している方なので、黄忠祠も復活させて欲しい。
位置情報
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