姜維の胆墓と言われている。墓前には清代の墓碑が2通立つ。
2005年当時、墓の上には観測所が建てられていた。
四川大地震後、大きな方の墓碑は割れてしまった。
文物碑: 1985年1月4日公布 芦山県文物保護単位「姜維墓」
基本情報
【訪問時期】2003年10月23日 / 2005年10月9日 / 2009年6月7日
【関連人物】姜維
【文物保護】1985年1月4日公布 芦山県文物保護単位「姜維墓」
ちょこっと解説
 姜維、字は伯約。凉州天水郡冀県(現在の甘粛省甘谷県六峰鎮)の人。もとは魏の天水郡中朗将として天水太守馬遵の元で仕えていた。建興六年(西暦228年)に諸葛亮が北伐を開始すると、馬遵から内通の疑いをかけられる。馬遵は上邽に逃亡するが、後を追ってきた姜維を城内へ入れなかった。姜維は仕方なく冀県へ戻るが、そこでも城内へ入ることができず、蜀軍へ降伏している。諸葛亮は姜維の才能を高く評価、倉曹掾に命じ、奉義将軍を任じ、当陽亭侯に封じている。その後、諸葛亮の北伐に参加、中監軍征西将軍に任じられる。建興十二年(西暦234年)に諸葛亮が死去すると、姜維は成都へ戻り、右監軍輔漢将軍に任じられ軍を統率することとなり、平襄侯に封ぜられる。延熙六年(西暦243年)には鎮西大将軍に昇任、凉州刺史も兼任することとなる。延熙十年(西暦247年)には衛将軍録尚書事に昇任。延熙十六年(西暦253年)には、姜維の北伐出兵に反対していた費禕が死去、それにより姜維は北伐を開始する。戦況は一進一退を続け、軍事のみに力を注いできた姜維は、宦官を重用する劉禅からも疎まれ始める。景耀六年(西暦263年)、魏の鄧艾と鍾会が蜀へ侵攻、姜維は剣閣で鍾会を防ぐが、陰平道から侵攻した鄧艾が綿竹で諸葛瞻を撃破、これを聞いた劉禅は降服、姜維も劉禅の命を受けて降服した。魏元景五年(西暦264年)、鍾会に謀反心があることを悟った姜維は、これに乗じて蜀の復興を画策するが、失敗。鍾会らと共に処刑されている。
探訪後記
 この墓は、けっこう思い出深い。成都の交通飯店で知り合ったK君と一緒に訪れてみた。まずは漢姜侯祠を訪れた後、裏にある博物館へ行き館員のおっさんに姜維墓のことを聞く。街からそんなに遠くない場所にあり、輪タクで行けるとのこと。具体的な行き方がイマイチわからなかったので、素直に輪タクを捕まえる。輪タクのおっちゃんに「龍尾山の姜維墓まで行って」と言うと、おっちゃんは知っているらしく、すぐに向かう。しかし、途中で止まり「あそこは鍵がかかっているから、鍵を持っている人を先に探さなきゃ」と言って、街中へ向かった。おっちゃんが聞き込むと「鍵を持っている人はちょうど向こうにいるらしい」との答え。しばらく輪タクに乗って行くと到着。ついでなのでおっちゃんにお願いして案内して貰うことにした。小高い龍尾山に登り、鉄門をくぐると姜維墓の碑が目の前に。K君と二人で喜び合う。たぶんここを訪れた日本人はまだいないはず。嬉しい到達となった。
関連遺址
姜維衣冠塚
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[ 天水 ]
姜維墓
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[ 甘谷 ]
位置情報
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投稿情報
【カテゴリ】四川省蘆山県
【 タグ 】姜維
【公開範囲】都督 大将軍 丞相
【掲載日時】2017年3月30日 19:28
【更新日時】2023年1月16日 19:23
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