清光緒三十二年(西暦1906年)の石碑だが、近年複製されたもの。
対聯の中、鄧馬は鄧芝と馬岱のこと。2人の衣冠塚があった。
石碑は向陽鎮陳列室の前に置かれている。
基本情報
【訪問時期】2003年9月30日 / 2008年9月4日 / 2012年5月8日
【関連人物】馬岱
【文物保護】
ちょこっと解説
 蜀漢平北将軍陳倉侯、馬岱。馬超の従弟。建安十九年(西暦年214年)に馬超と共に劉備の元へ降る。馬超が臨終時、馬岱を劉備に託している。その後、諸葛亮の元、数々の軍功を立てている。諸葛亮死後、魏延と楊儀が反目し合ったが、楊儀が優勢、漢中虎頭橋で馬岱が魏延を斬っている。
 馬岱墓、馬岱の死後、向陽鎮の筲箕坡上に葬られたとされる。現在の張化村の向陽供電站の前あたり。以前は馬岱墓前に八角亭が建てられており、亭の中には清光緒三十二年(西暦1906年)「漢平北将軍陳倉侯馬公諱岱之墓」の碑が立てられていた。しかし、八角亭は民国二十年に道路工事のために撤去、馬岱墓は大躍進政策のもと1959年に破壊された。現在は向陽鎮陳列室の前に復元された碑のみが残る。
探訪後記
 向陽鎮に降り立つと、すぐに輪タクのじいさんが声をかけてきた。「どこへ行くんだ」と聞かれたので、「馬岱墓を見たいんだけど」と答える。「おぉ、馬岱墓か。昔あったぞ、大きな墓じゃった」と話し出すじいさん。しかし、すでになくなってしまったらしい。「碑だけはどっかに残っていると聞いたんだけど」と聞いてみるが、知らないらしい。他にあてもないので鎮政府へ行ってみることにした。鎮政府の中でうろうろしていると、職員に呼び止められた。「馬岱墓の碑はどこ」と聞いてみると、すぐ近くにあるらしい。鎮政府のすぐ近くに向陽鎮陳列室があり、そこにあるそうだ。さっそく行ってみると、あった。以前は二つに割れた古い碑があると聞いていたが、どうも復元されて新しい碑になってしまったようだ。まぁ、ないよりはいい。でも碑の「陳昌侯」は「陳倉侯」の間違いじゃないのかな。
位置情報
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投稿情報
【カテゴリ】四川省広漢市
【 タグ 】馬岱
【公開範囲】校尉 都督 大将軍 丞相
【掲載日時】2017年2月25日 16:03
【更新日時】2019年1月13日 14:31
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