左側が明代の馬超墓碑、右側が清代の馬超墓誌。
四川按察使楊瞻「漢故征西将軍馬公諱超字孟起之墓」の部分。
四川提督馬維祺「漢驃騎将軍領凉州牧嫠郷侯謚威侯馬公墓誌」の部分。
四川提督馬維祺「漢驃騎将軍領凉州牧嫠郷侯謚威侯馬公墓誌」の複製も置かれている。
基本情報
【訪問時期】2003年1月25日 / 2003年9月22日 / 2008年9月4日
【関連人物】馬超
【文物保護】
ちょこっと解説
 蜀漢大将。馬超、字は孟起。雍州扶風郡茂陵県(現在の陝西省興平市)の人。謚は威侯。章武二年(西暦222年)に病死。馬超は蜀漢の最盛期に亡くなったため、その墓である新都馬超墓の規模は宏大なものとなっていた。墓は南向き、封土の高さは約6m、直径約12m。墓室の幅は約3m、奥行き10m。墓室内には石門、石案、石棺台などがあり、細やかな彫刻が施されていた。しかし間もなく盗掘されている。
 明代、四川按察使楊瞻、成都知府王九徳、新都知県邵年斉などが、年月の流れによって原形をとどめていない新都馬超墓を埋没させないために墓前に碑を立てる。清雍正十二年(西暦1734年)には、知県陳銘が墓の周囲に境界を示す石を積み、境界内での農作などを禁止している。清道光十七年(西暦1837年)には、知県張奉書が墓地を測量。また墓の周りに柏を植え、周囲に壁を作り、墓守を置いた。
 清代、新都馬超墓の保護に最も力を入れた者は、四川提督馬維祺である。清宣統元年(西暦1909年)に馬維祺が川北巡視時、馬超を慕う彼は回り道をして新都で新都馬超墓を拝謁している。その際に献殿三間を再建、自ら「英風常振」の扁額を書した。また「馬公墓誌」を記している。
 文革により新都馬超墓は徹底的に破壊され、二枚の石碑が残るのみとなった。その跡地には馬超村小学が建設されている。馬超村小学は新都バスターミナルから南へ1.3kmほど、電子路東段にある。そこの教師に尋ねたところ、小学校から電子路をはさんで向かい側に墓の跡が少し残っているとのこと。
 1985年、新都県(現在の成都市新都区)人民政府が新都馬超墓を重要文物遺址に指定。1987年、残存していた二枚の石碑を昇庵桂湖内の碑林へ移設、保存した。一枚は明代の四川按察使楊瞻が立てた「漢故征西将軍馬公諱超字孟起之墓」。もう一枚は清代の四川提督馬維祺が立てた「漢驃騎将軍領凉州牧嫠郷侯謚威侯馬公墓誌」。
探訪後記
 馬超墓の址を探して、まずは馬超村小学を探す。新都の地図を片手に目印のある場所を歩いてみるが何も見つからない。延々と歩き続け、やっとのことで馬超村小学を発見。中に入ってみる。しかしそれらしいものは何もない。学校の先生に馬超墓のことを聞いてみる。学校の向かい側の草むらに墓道などの址が残っているとのこと。行ってみたが、よくわからなかった。碑は保存されていると言うものの、文革の破壊行為でどれだけの文物が塵と消えたことやら。
 二度目の訪問は、成都交通飯店で知り合った三国遺址大好きなおじさん、臼井さんを案内して行った。
 三度目の訪問は、約5年ぶり。新都もだいぶん大きな建物が増えていた。馬超村小学のあった電子路東段は、馬超路と名前が変わり、小学校も桂林小学馬超分校となっていた。新都馬超墓があったとされる場所は、整備されて公園のようになっていたが、墓を偲ばせるようなものは何一つなかった。墓の復活はないのか。桂湖碑林内には「漢驃騎将軍領凉州牧嫠郷侯謚威侯馬公墓誌」の復元された碑も立てられていた。
位置情報
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投稿情報
【カテゴリ】四川省成都市
【 タグ 】馬超
【公開範囲】校尉 都督 大将軍 丞相
【掲載日時】2017年3月25日 19:36
【更新日時】2017年3月25日 19:50
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