田んぼの中に小さな塚が残されている。
董和、董允が蜀へ移住したときの居住地らしい。
衣冠塚と言われているが、墓穴が開いていた。
基本情報
【訪問時期】2009年6月3日
【関連人物】董允
【文物保護】
ちょこっと解説
 董允、字は休昭。荆州南郡枝江県(現在の湖北省枝江市)の人。三国志には荆州南郡枝江県の人と記載されているので、この場所は、董允の父である董和が宗族を引き連れ四川へ移住してきた後の居住地だったと考えられる。
 董允墓、当地の言い伝えでは衣冠塚とされる。墓が造成された時期はわかっていない。明万暦二十六年(西暦1599年)に知州の阮時昇が墓碑と詩碑を立てたが、現在は残っていない。
探訪後記
 董允墓、ネットを見ていると場所だけが書かれてあった。瀘州の地方志を見てみると、確かに董允墓の記載があった。ネットの情報はこれが元のようだ。しかし、地方志に載っているからといって今もなお残っているとは限らない。この中国のことだ、墓のような土盛りは何かに使ってしまうこともある。それでも気になっていた遺跡なので、とにかく行ってみることにした。分水嶺行きのバスを探すのにちょっと苦労したが、なんとか見つかった。郊外の新しいバスターミナルから出ている。分水嶺に到着後、聞き込みを開始。目的地の地名は董允壩だ。人民に聞いてみると知っている人が多い。それもそんなに遠くないようだ。とにかく言われた方向へ歩いていく。途中、人民おっちゃんがいたので聞いてみると、董允墓のことも知っていた。ここでは董允墳と呼んでいるようだ。場所も公路からちょっと入ったところだそうで、人民おっちゃんが近くまで行く人民ばあちゃんを紹介してくれた。人民ばあちゃんに連れられて進んでいく。そして村に到着。なんだバスで通り過ぎた大悲村だったのね。下調べでこの辺りだと思っていたら、やっぱりそうだった。村人に聞いてみると、すぐに見つかった。碑もないけれど、本当に墓だ。盗掘されたのか、大きな穴が開いていて中がちょっとだけ見える。水が溜まっているようだ。いや、でもちゃんと残っていてよかったよ。今後は是非、文物碑でも立てて欲しいもんだ。
位置情報
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投稿情報
【カテゴリ】四川省瀘州市
【 タグ 】董允
【公開範囲】都督 大将軍 丞相
【掲載日時】2017年6月18日 09:31
【更新日時】2019年1月13日 14:29
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