道路の中央に、片方だけ残る漢闕が残されている。
風化が激しい。鄧芝墓の神道に立てられた闕だと言われている。
文物碑: 1985年6月17日公布 梓潼県重点文物保護単位「無銘闕」
基本情報
ちょこっと解説
蜀車騎将軍。鄧芝、字は伯苗。荊州南陽郡新野県(現在の河南省新野県)の生まれ。益州王劉璋の時代に蜀へ入り、巴西郡太守龐羲のもとで仕える。劉備が益州を平定すると、劉備の元で仕えるようになる。建興元年(西暦223年)に劉備の死後、呉との関係修復を狙う諸葛亮に見いだされて使節となって向かう。巧みな話術で孫権を説き伏せ、呉は蜀と同盟を結び、魏とは断交することとなる。延熙六年(西暦243年)には車騎将軍となり、仮節(軍令違反者を殺すことができる権利)も与えられている。延熙十四年(西暦251年)に死去。
鄧芝墓闕、梓潼県誌に「県西南、有二石闕」と記載されている。梓潼には四つの漢闕が確認されているが、県城西の無銘闕が鄧芝の衣冠塚のものだったと考えられており、東漢時代のものと確認されている。
鄧芝墓闕、梓潼県誌に「県西南、有二石闕」と記載されている。梓潼には四つの漢闕が確認されているが、県城西の無銘闕が鄧芝の衣冠塚のものだったと考えられており、東漢時代のものと確認されている。
探訪後記
三国志遺跡の捜索仲間である開封太郎さんから情報を貰っていたところ。バスターミナルから近いと聞いていたので、訪れてみることにした。とは言っても内心は「また、分かりにくい場所にあったらどうしよう」と思っていた。街の西側ということしか分かっておらず、だいたいこの辺りかなというところまで進んでみることにした。すると心配とは裏腹に道路の真ん中に立つ石を発見、ご丁寧に牌坊のようになっているではないか。風化がかなり進み保存状態はよくないが、確かに漢闕だと分かるような形状である。でもなぜここに鄧芝墓があったのかはよくわからない。それでも鄧芝にまつわる伝説があって、ここに衣冠塚が作られたというようなことである。
位置情報
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