王平故里、将軍溝がその場所とされる。今は東側公路近くに王平像があるのみ。
王平像。それほど大きくはないが、なかなかの出来。
基本情報
ちょこっと解説
蜀鎮北大将軍王平、字は子均。益州巴西郡宕渠県(現在の四川省渠県和楽郷双盤村将軍溝)の人。幼い頃に父が病死、母方の何姓を名乗り、何平と呼ばれていた。後に父方の姓である王に戻した。漢建安二十年(西暦215年)に巴西郡の夷王朴胡、賨人杜濩らとともに洛陽へ遷され、曹操に仕えるようになる。建安二十四年(西暦219年)、定軍山において夏侯淵が敗れると、王平は曹軍に従って進軍するが、劉備軍に撃破され、そのまま投降する。後、蜀において活躍することとなる。
王平故里、民国「渠県誌」には「蜀漢王平故里、県北五里許、王関山下」と記載されているが、具体的な場所ははっきりとわかっていなかった。近年の調査研究により、和楽郷将軍溝将軍帽山の麓が王平の出生地であるとされるようになる。また将軍帽山の麓には王平祠が建立されていた。王平の両親は古代中国の少数民族賨人であると言われている。
王平故里、民国「渠県誌」には「蜀漢王平故里、県北五里許、王関山下」と記載されているが、具体的な場所ははっきりとわかっていなかった。近年の調査研究により、和楽郷将軍溝将軍帽山の麓が王平の出生地であるとされるようになる。また将軍帽山の麓には王平祠が建立されていた。王平の両親は古代中国の少数民族賨人であると言われている。
探訪後記
王平故里は、開封太郎さんから情報を貰っていた。王平像があるらしい。ネットで検索してみると確かにありそうなので、訪れてみることにした。渠県からバスに乗り、和楽郷へ向かった。「和楽で降りる。」と車掌の兄ちゃんに伝えると、「和楽には二ヶ所降りる場所があるんだ。どっちだ。」と聞かれる。わからないので「王平故里へ行きたいんだけど。」と告げる。兄ちゃんは運転手と話を始め「王平故里、ああ、わかった。」と言う。そしてバスは和楽郷に入った。バスはまだ走り続ける。「もう着いたんじゃないの。」と聞くが、まだらしい。しばらくしてバスは停まり、「ここで降りて、そこの道を行けばいいぞ。」と言われた。双盤村で降りる。コンクリートの道が西の方へ続いている。近くに人民がいたので、話を聞いてみた。「確かに王平故里と言われている将軍溝は西の方にあるが、まだ開発されていないので何もない。」とのこと。ついでに王平像のことを聞く。「王平像は和楽郷の入口、河の向こうにある。」とのことだった。さらに話を聞くと、王平像を立てた場所を王平古鎮として開発し、観光場所にしようとしたのだが、その場所は王平と関係ないと横やりが入って計画は頓挫。結局、どちらとも中途半端に終わってしまっているそうだ。まあ、中国らしいと言えばそれまでなのだが。
時間もあまりないので、何もない将軍溝へは行かず、王平像を目指すことにした。途中、人民に幾度か聞き込みをする。答えはみな同じで「将軍溝はあっち、王平像はそっち。」とのこと。さて、やっと王平像の見える場所までやってきた。河には吊り橋が架かっている。これを渡ればと思いきや、まさかの通行禁止。河の向こうには王平像が見えるのに。すると近くに人民がいた。どうやら渡し舟を待っているらしい。ここまで来たら、もう行くしかないでしょう。おらも渡し舟を待つ。しばらくすると舟がやって来た。それに乗せて貰い、対岸へ渡る。なんとか王平像へたどり着いた。戻るときも舟。船頭のオヤジと話をする。「まったくこっちを開発するはずだったのに。」とグチを聞かされた。まあ、こんな小さな街でも利権が絡んでいるんだろうね。
時間もあまりないので、何もない将軍溝へは行かず、王平像を目指すことにした。途中、人民に幾度か聞き込みをする。答えはみな同じで「将軍溝はあっち、王平像はそっち。」とのこと。さて、やっと王平像の見える場所までやってきた。河には吊り橋が架かっている。これを渡ればと思いきや、まさかの通行禁止。河の向こうには王平像が見えるのに。すると近くに人民がいた。どうやら渡し舟を待っているらしい。ここまで来たら、もう行くしかないでしょう。おらも渡し舟を待つ。しばらくすると舟がやって来た。それに乗せて貰い、対岸へ渡る。なんとか王平像へたどり着いた。戻るときも舟。船頭のオヤジと話をする。「まったくこっちを開発するはずだったのに。」とグチを聞かされた。まあ、こんな小さな街でも利権が絡んでいるんだろうね。
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