小高い金蓮山の中腹にある関三小姐墓。
李恢の息子である李蔚、関羽の三女である関銀屏の合葬墓だとされる。
文物碑: 2001年4月30日公布 玉渓市文物保護単位「関三小姐墓」
ちょこっと解説
関三小姐、関羽の三女で銀屏と称する。生まれながら容姿は美しく、聡明で武芸にも長けていた。呉が関羽に対して孫権の息子と関羽の三女の婚姻を求めたが、断っている。後に荆州で関羽が敗れると、関三小姐は復讐を誓い成都まで落ち延びた。その後、諸葛亮が南征を開始すると、建寧郡俞元県(現在の澄江県)の人である李恢を起用し、諸葛亮自らが仲人となって関三小姐を李恢の子である李蔚に嫁がせている。南征が終わった後、李恢らは俞元で暮らしはじめ、関三小姐は俞元の人々に数多くの事を教え尊敬されていた。関三小姐が俞元にて亡くなると、地元民は彼女の梳粧台の近くに亡骸を葬ったとされる。
関三小姐墓、漢興亭侯李恢の子李蔚と漢寿亭侯関羽の三女の合葬墓。清宣統二年(西暦1910年)の墓碑には「漢忠臣興亭侯子李蔚、寿亭侯女関氏三姐之墓」と刻まれている。墓碑脇の墓聯には「墓近聖人宮、父女相睽祗数武」と「神游荆襄界、魂魄長恨于千秋」と刻まれている。澄江人である李蔚と、その妻関三小姐のために造られた墓だとされる。1989年8月に修復。
関三小姐墓、漢興亭侯李恢の子李蔚と漢寿亭侯関羽の三女の合葬墓。清宣統二年(西暦1910年)の墓碑には「漢忠臣興亭侯子李蔚、寿亭侯女関氏三姐之墓」と刻まれている。墓碑脇の墓聯には「墓近聖人宮、父女相睽祗数武」と「神游荆襄界、魂魄長恨于千秋」と刻まれている。澄江人である李蔚と、その妻関三小姐のために造られた墓だとされる。1989年8月に修復。
探訪後記
前回、昆明まで来たときにこの墓の存在を知ったのだが、すでに次の目的地への切符を買っていたために訪れることができなかった。今回、また昆明まで来たので行ってみることにする。澄江までは、どうってこともなく着いたのだが、そこから旧城まではどう行くのかわからない。バスでもあればいいのだが、聞いてみてもないと言われた。まぁ、街からはそんなに遠くないようだし歩いて行くことにする。人民に道を聞きながら進み、旧城村に入ると道路脇に公交站の看板が見える。バスがあるのかなと思ったのだが、いっこうに見かけない。たぶんまだ走ってないのかな。そしてやっと金蓮山の麓まで到着。この山に関三小姐墓があるはずだ。人民おばちゃんに聞いてみると、登ってすぐのところにあるそうだ。山といってもそんなに高くない。言われたとおり階段を上っていくと、すぐに見つかった。墓碑は小さいがなかなかいい感じの墓だ。こんなマイナーな人物の墓が残っているなんて。関三小姐はよっぽどここの人々に愛されていたのだろうな。
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