曹操との戦いで傷を負った龐徳、張魯のもとに身を寄せ、この塔付近で療養していた。
東塔の説明文には、西凉龐徳の文字も見える。
学校の敷地内にあるのだが、現在周囲を公園として整備しているようだ。
文物碑: 1957年8月31日公布 陝西省重点文物保護単位「東塔」
基本情報
【訪問時期】2002年7月13日 / 2009年6月23日 / 2016年3月27日
【関連人物】龐徳
【文物保護】1957年8月31日公布 陝西省重点文物保護単位「東塔」
ちょこっと解説
 漢建安十六年(西暦211年)、潼関の戦いで馬超とともに敗れた後、漢建安十七年(西暦212年)にも馬超とともに挙兵し、冀城を拠点として曹操軍と戦うが、またも敗北を喫する。その後、漢中の張魯のもとへ身を寄せる。先の戦いで負傷した龐徳は、漢中に留まって療養を続けた。言い伝えでは、この東塔のもとで療養していたとされる。漢中府誌にも「浄明寺建於明代洪武八年,建寺時塔已存在,相傳三国時西涼龐徳曾在塔下養病。」と記載されている。
探訪後記
 二度も訪れていながら、ずっとその存在を忘れていた。写真を整理していたら思い出した。まあ、現在は小学校の敷地内に東塔が残っているだけなのだが、その塔身に碑刻が嵌められており、そこにはちゃんと龐徳の名前も出てきている。明代に寺が建てられる前からこの塔は存在していたということだが、三国時代からあったということなのだろうか。それにしては三国時代っぽくない塔である。まあ、なんども建て直されていると考えるのが普通だろう。ここを訪れるきっかけになった元ネタは、どこから仕入れてきたのかも忘れてしまった。最初の訪問が2002年ということは、もうネットから仕入れた情報なのかもしれないな。
位置情報
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投稿情報
【カテゴリ】陝西省漢中市
【 タグ 】龐徳
【公開範囲】校尉 都督 大将軍 丞相
【掲載日時】2018年10月14日 19:00
【更新日時】2019年1月12日 21:22
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