ここも姜維の出生地とされ、衣冠塚が残されていた。
2006年5月25日に立てられた「姜維衣冠塚遺址」の石碑。
衣冠塚のある黄家坪からの眺め。
基本情報
【訪問時期】2009年6月30日
【関連人物】姜維
【文物保護】
ちょこっと解説
 姜維、字は伯約。凉州天水郡冀県(現在の甘粛省甘谷県六峰鎮)の人。もとは魏の天水郡中朗将として天水太守馬遵の元で仕えていた。建興六年(西暦228年)に諸葛亮が北伐を開始すると、馬遵から内通の疑いをかけられる。馬遵は上邽に逃亡するが、後を追ってきた姜維を城内へ入れなかった。姜維は仕方なく冀県へ戻るが、そこでも城内へ入ることができず、蜀軍へ降伏している。諸葛亮は姜維の才能を高く評価、倉曹掾に命じ、奉義将軍を任じ、当陽亭侯に封じている。その後、諸葛亮の北伐に参加、中監軍征西将軍に任じられる。建興十二年(西暦234年)に諸葛亮が死去すると、姜維は成都へ戻り、右監軍輔漢将軍に任じられ軍を統率することとなり、平襄侯に封ぜられる。延熙六年(西暦243年)には鎮西大将軍に昇任、凉州刺史も兼任することとなる。延熙十年(西暦247年)には衛将軍録尚書事に昇任。延熙十六年(西暦253年)には、姜維の北伐出兵に反対していた費禕が死去、それにより姜維は北伐を開始する。戦況は一進一退を続け、軍事のみに力を注いできた姜維は、宦官を重用する劉禅からも疎まれ始める。景耀六年(西暦263年)、魏の鄧艾と鍾会が蜀へ侵攻、姜維は剣閣で鍾会を防ぐが、陰平道から侵攻した鄧艾が綿竹で諸葛瞻を撃破、これを聞いた劉禅は降服、姜維も劉禅の命を受けて降服した。魏元景五年(西暦264年)、鍾会に謀反心があることを悟った姜維は、これに乗じて蜀の復興を画策するが、失敗。鍾会らと共に処刑されている。
 姜維衣冠塚、言い伝えに拠れば天水関付近、鉄堂峡内の鉄堂庄には姜維の祖墓があり、また姜維の出生地であったとされる。姜維の死後、部下がこっそりと姜維の首を持ち帰り、ここに埋めたとされる。
探訪後記
 中国のネット情報を元に、あるかどうかわからないがチャレンジしてみた。もしあれば第四の姜維墓ということになる。場所は天水鎮の黄家坪。山上に塚があるとのこと、以前からかなり気になっていた遺跡だ。人民に聞いて黄家坪へ向かう。ちょっとした山になっている。もう山登りは嫌なのだが、そうも言っていられない。なんとか山頂までたどり着いた。しかし、そこには塚らしきものはなく、平坦な草むらが広がっていた。「やっぱりガセだったか」と完全に意気消沈。景色はいいのだが、どうでもいい。途中、烈士墓があったがそんなものもどうでもいい。肩を落として、山を下りる。するとちょっと下りたところで目に入ったものは…。「あ、あれだ」と声を上げてしまった。一つのそれらしい墓が目に入った。形状からしてかなり確率が高いぞ。さっそく、行ってみることにする。しかし、下りる道を忘れた。なんとか墓の後ろまで来た。墓の前に碑があるのだが、後ろからは何の文字も見えない。「姜維墓でありますように」と祈りつつ、前へ。「きたきたきた~姜維墓だ」とガッツポーズ。一度諦めただけにこの発見はかなり嬉しい。最近、整備再建された墓のようで立派な墓だ。これで昨日、天水鎮で宿探しに苦労したのも報われることになった。
関連遺址
姜維墓
姜維墓

[ 芦山 ]
姜維墓
姜維墓

[ 甘谷 ]
位置情報
在野の士であるあなたはこの位置情報を閲覧できません。仕官申請しますか。
投稿情報
【カテゴリ】甘粛省天水市
【 タグ 】姜維
【公開範囲】都督 大将軍 丞相
【掲載日時】2017年1月21日 19:28
【更新日時】2019年1月12日 21:16
Loadingいいね!299