木門道にある武侯祠から北の方を眺める。この辺りが古戦場だそうだ。
こちらは南の方を眺めたところ。
山と山の間が狭まった場所、東側の山上に武侯祠が建てられている。
三国古戦場遺址「木門道」の石碑が立てられている。
これが張郃の頭蓋塚らしいが、確証がない。
基本情報
【訪問時期】2009年7月2日
【関連人物】諸葛亮張郃
【文物保護】
ちょこっと解説
 三国演義、第一百一回「出隴上諸葛妝神、奔剣閣張郃中計」の中でも記載されている。建興九年(西暦231年)、諸葛亮の第四次北伐が食糧不足によって撤退の憂き目となる。祁山から撤退を始めた蜀軍は、諸葛亮の策略によって魏延が囮となって敗走を続ける。それを追撃してきた張郃が木門道で伏兵に狙撃され、弩に射られて戦死した場所とされる。
 実際には、司馬懿の命令で追撃をした張郃が矢に中り戦死したのだが、特に木門道でという記載はない。張郃は司馬懿の命令に反対しているにも関わらず、司馬懿は聞き入れずに張郃を出撃させ戦死に追いやっている。
 現在では草木が覆い茂るような光景は残っていないが、木門道の東側には蜀軍が伏兵をおいた伏兵湾や、擂鼓台なども残っている。またここからは三国時代の鏃や刀、剣、矛などが数多く出土しており、考古学的にも価値のある場所だとされる。1996年6月に天水市秦城区(現在の天水市秦州区)が立てた三国古戦場遺址「木門道」の石碑が木門道武侯祠の山麓にある。
探訪後記
 木門道、ここはかなり前から何かあるとわかっていた場所。天水の地図にも載っている。それでも今まで訪れなかったのは、どうやって行っていいかわからなかったから。以前はやはりまだ青くて、ちょっと交通が不便な場所だと諦めるしかなかった。それでも今となってはどんなに田舎にあっても、どんなに交通が不便な場所にあっても、そこに何かがあるのならどうやってでも行けるだけの技術や度胸が身についた。まあ、ちょっと大げさだけれども。別に無人の荒野に行くわけでもなし、人が住んでいるところへ行くだけなのだから。でも基本はバスと徒歩のみだから、車をチャーターして行くというのは、私の中では論外。地図と睨めっこして、近くを通りそうなバスを探して行く。それが遺跡捜索の楽しみの一つでもあるのだ。ここへ来るにも牡丹行きのバスを探して、バスを降りてからさらに歩いていく。もうそろそろ着くだろうと思ったところで木門道の石碑があった。遺跡捜索のカンだけはどんどん鋭くなっているような気がする。
位置情報
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投稿情報
【カテゴリ】甘粛省天水市
【 タグ 】諸葛亮張郃
【公開範囲】校尉 都督 大将軍 丞相
【掲載日時】2016年12月24日 20:57
【更新日時】2019年1月12日 21:16
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