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新庄村の入口に立つ龐徳故里の碑。
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この橋を渡って村に入る。
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橋を渡ると龐徳記念碑も立てられていた。
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三国名将龐徳故里と書かれた村名の碑。
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2016年に再び訪れると、こんなものも出来ていた。
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基本情報
ちょこっと解説
龐徳、字は令明。雍州南安郡貆道県(現在の甘粛省武山県四門鎮新庄村)の人。龐徳故里である新庄村は、もともと龐家窪と呼ばれる場所だった。もちろん村民の姓ももともとは全て龐だった。龐徳は関羽に囚われて斬首となったものの、朝廷が龐徳に与えた栄誉は高かった。しかし、現在の村民は姓が孫。どうして姓を変えなければならなかったのか。それは諸葛亮の北伐時に蜀軍が龐家窪を通過、蜀軍に攻撃されることを恐れた村民たちは姓を孫に変え防いだためとされる。龐家窪ももともとは、近くの小山にあった窪地に位置していたのだが、大雨によって埋没を恐れた村民たちがすぐ近くで新しく村を作り生活を始めた。そのため、新しい村庄の意味から新庄村となったとされる。
探訪後記
龐徳故里、ネット情報で龐徳記念碑の写真は見たことがあった。そのページには龐徳故里の碑もあると書かれていたのだが、中国のネット情報は疑いの目で見なければならないのが常。実際に訪れて自分の目で確認するまでは信じられないのだ。新庄村に到着すると、その疑いはすぐに晴れた。村の入口に立てられた龐徳故里の碑、素晴らしい。そして小さな橋を渡るとすぐに龐徳記念碑が。もう少し進むと村名の石碑にも「三国名将龐徳故里」の文字が。これだけ揃っているのに今までは情報がほとんどなく訪れる人も少なかったのだろう。そう考えると中国のネット情報もどんどん多くなってきているのは確か。あとは信憑性が増していくことを願うと言ったところか。それにしても、こうやって故郷の人々に慕われている人物はいいもんだと思う。
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