清光緒十四年「漢士威彦先生故里」の石刻。
「威彦」は士燮の字。
士燮を祭っている大人廟前面。
士燮を祭っている大人廟内部。
大人廟の士燮像。
基本情報
ちょこっと解説
衛将軍交趾太守龍編侯士燮、字は威彦。蒼梧広信(現在の梧州市龍圩区京南鎮)の人。士燮の先祖は魯国汶陽県(現在の山東省寧陽県)の人だが、王莽の乱を避け交州へ移ってきている。父士賜は漢桓帝時に日南郡太守を務めている。建安十五年(西暦210年)には呉の孫権が士燮を左将軍に封じると、士燮は益州の豪族雍闓などを率いて呉に帰属している。士燮はさらに衛将軍となり龍編侯に封ぜられている。呉黄武五年(西暦226年)に死去。
士燮故里、清光緒年間、京南には羅棟才という書生がいた。何度も科挙試験を受けるが落ちてばかり。ある夜、夢の中に士燮が現れて羅棟才に錦嚢を与えると、羅棟才は挙人、進士と受かっていった。羅棟才は士燮に対する感謝の気持ちを込めて、清光緒十四年(西暦1889年)に桂江河畔で碑刻を刻み、大人廟を建てたとされる。現在、桂江畔に清光緒十四年「漢士威彦先生故里」の石刻が残されている。また大人廟も1999年に再建された。
探訪後記
中国にいるとはいえ、働いているのでなかなか三国志遺跡を探しに行く時間がない。正月三ヶ日にやっと3連休を取って、前から目を付けていた士燮故里へ行ってみることにする。私が今住んでいる東莞市長安鎮から梧州へ行くバスが出ているのでそれに乗っていくことにした。6時間ほどで着くと言っていたが、渋滞もあり結局9時間近くかかってしまった。次の日の朝、京南へ行くバスに乗り込み出発。それでも客引きで行ったり来たり。バスターミナルから出てしまえば無法地帯だ。2時間ほどで京南へ到着。桂江沿いの小さな街、それでも大きなダムがあるようだ。さっそく士燮故里の石刻を探す。情報通りの場所までたどり着いたが見つからない。もしかしてまた破壊されてしまったか。工事の足場なんかがかけられているので余計に心配になる。地元人民に連れられて石刻が見える場所へ案内してもらった。人民宅の屋根の上からが絶好の位置。まあ、こんなもんだろう。次は大人廟へ。ここは新しく建てられた廟なのだが、柱には「呂岱なんかくそ食らえ」みたいなことが書かれているのが面白い。
位置情報
在野の士であるあなたはこの位置情報を閲覧できません。仕官申請しますか。
いいね! 271