馬岱墓だといわれている塚。傍らには漢磚が置かれていた。
民家の傍らに残る塚。もとはもっと大きかったそうだ。
墓を構成していた漢磚と思われる。周辺から多く出土している。
基本情報
ちょこっと解説
蜀漢平北将軍陳倉侯、馬岱。馬超の従弟。建安十九年(西暦年214年)に馬超と共に劉備の元へ降る。馬超が臨終時、馬岱を劉備に託している。その後、諸葛亮の元、数々の軍功を立てている。諸葛亮死後、魏延と楊儀が反目し合ったが、楊儀が優勢、漢中虎頭橋で馬岱が魏延を斬っている。
馬岱墓、三国志に「子龍葬銀屏、馬岱葬太平」の記載がある。解放前に樊姓の県佐官が馬岱墓を探させているが、失敗している。1950年代になって、地元民が「蜀漢馬岱墓」の文字がある漢磚をいくつか掘りあてている。そして当地の農民がレンガを焼くための土を採取していると、近くから漢墓6座も発見された。墓室は主室と耳室からなり、主室からは鉄器や陶器、五銖銭などが出土している。墓室に使われた漢磚には模様があり、模様の種類も種類が多い。出土した漢磚は村中に散在している。
馬岱墓、三国志に「子龍葬銀屏、馬岱葬太平」の記載がある。解放前に樊姓の県佐官が馬岱墓を探させているが、失敗している。1950年代になって、地元民が「蜀漢馬岱墓」の文字がある漢磚をいくつか掘りあてている。そして当地の農民がレンガを焼くための土を採取していると、近くから漢墓6座も発見された。墓室は主室と耳室からなり、主室からは鉄器や陶器、五銖銭などが出土している。墓室に使われた漢磚には模様があり、模様の種類も種類が多い。出土した漢磚は村中に散在している。
探訪後記
馬岱墓と言えば、広漢市向陽鎮の方が有名なのだが、あちらの方は墓碑しか残っていない。ネットで調べていると、もう一つの馬岱墓の記述があった。こっちも成都から近い場所だ。太平山漢墓群の一角に残っており、「蜀漢馬岱墓」と刻まれたレンガがいくつも出土しているとか。すごく気になる遺跡なので行ってみることにした。懐遠に到着後、前鋒村へ向かう。なんだ崇州からのバスの通り道だ。人民に聞きながら進んでいく。意外と近いようだ。さて、馬岱墓と聞けばだいたいの人民が知っている場所まで来た。しかし、どれくらいの規模の墓なのかもわからないし、林の中に盛り土があればそれかなとも思ってしまう。案内してくれる人民がいないかな。そして親切な人民おっちゃんが登場。道を聞くと連れて行ってくれるそうだ。まさに渡りに舟。そして到着。人民おっちゃん曰く「ここがそうだ。もとはもっと大きな墳墓だったんだ」とのこと。今じゃ、見る影もなく辛うじて盛り土が残っている程度。確認のためにすぐ横の家へ行って聞いてみる。すると「何を言ってるんだ。そんなものはない。早く帰れ」と人民一家総出で言う。すごい怪しい一家だ。近くの人民ばあちゃんに聞くと、やっぱりそこが馬岱墓だったと言う。あの一家は何かを隠しているのだろうか。家の横には模様の入った明らかに墓のレンガがあったし。それはともかく人民おっちゃん、ありがとう。
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