地元民が顔良墓と言っている、高さ5mほどの塚。顔良の死後、ここに葬られたとされる。
文革以前には、墓の傍らに顔良寺があり、顔良像が祭られていた。
基本情報
【訪問時期】2008年6月22日
【関連人物】顔良
【文物保護】
ちょこっと解説
探訪後記
 以前、鞏義まで来たときに、鞏県石窟へ行った。そこの案内看板に鞏義の名所紹介があって、顔良文醜墓と記されていた。そのときは「本当かよ。でも街からだいぶん離れているし、また今度にしよう」と思っていた。そして今回、歩いてなんとか顔良寨までたどり着いた。さて、顔良墓はどこかな。道端にいた人民じいさまに聞いてみる。すると堰を切ったように話が止まらなくなった。顔良墓にまつわる話をずっとしてくれる。だいたいの場所もわかった。ちなみに文醜墓はもう平らになったそうだ。人民じいさまにお礼を言って、顔良墓へ向かう。人民じいさまが言っていた場所に来たと思うのだが、どこかわからない。近くの小屋におっさんが屯していたので聞いてみると、崖を降りてすぐの場所にあると言う。あぁ、塚が見えた。降りていって塚を見る。確かに墓っぽいが、碑などはどもにもないな。しばらくすると、道を聞いた人民じいさまが来た。「ちゃんとたどり着いたか心配になったんじゃ」とのこと。わざわざここまで来てくれるとは。本当にありがとう。ちなみに人民じいさまは地形の説明もしてくれた。「あっちが白馬坡じゃ、その向こうにチャオチャオワーもある」と言う。「チャオチャオワー」ってなんなんだろう。チャオチャオはたぶん曹操のことだろう。ワーって何だ。窪かな。なかなか難解な方言だな。
位置情報
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投稿情報
【カテゴリ】河南省鞏義市
【 タグ 】顔良
【公開範囲】都督 大将軍 丞相
【掲載日時】2017年12月16日 21:38
【更新日時】2019年1月13日 08:35
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