清康熙年間「漢太丘長陳公之墓」の石碑が保管されている。
漢太丘長は陳寔のこと。
基本情報
ちょこっと解説
陳寔、字は仲弓。豫州潁川郡許県(現在の河南省長葛市古橋郷陳故村)の人。三国魏の陳羣の祖父。太丘長を勤めたことから、陳太丘とも称される。延熹九年(西暦166年)の党錮之禍により禁錮され、官を辞して故郷で隠居する。故郷の人々は清廉潔白な陳寔の人柄を慕い、争い事があれば陳寔に判断を願う。陳寔が判断を下せば、人々は従い、怨むこともなかった。党錮之禁が解けた後、朝廷は幾度となく陳寔を召し出そうとするが、陳寔は固辞。中平四年(西暦187年)に病のため逝去。大将軍何進が祭儀を命じ、参列者は3万人を超えたとされる。中郎将蔡邕が自ら碑文を書し、大将軍何進から「文範先生」と謚された。
陳寔墓碑、清康熙四十五年(西暦1706年)、郾城知県温徳裕が立てた「漢太丘長陳公墓」の碑。郾城区新店鎮台王村北に陳寔墓があったが、すでに消滅している。現在、その墓前にあった碑が許慎閣祠内にて保管されている。一説には新店鎮台王村が陳寔の故里だとされるが、信憑性は薄い。
陳寔墓碑、清康熙四十五年(西暦1706年)、郾城知県温徳裕が立てた「漢太丘長陳公墓」の碑。郾城区新店鎮台王村北に陳寔墓があったが、すでに消滅している。現在、その墓前にあった碑が許慎閣祠内にて保管されている。一説には新店鎮台王村が陳寔の故里だとされるが、信憑性は薄い。
探訪後記
許昌で開封太郎さんと会ったときに、「漯河にも陳寔墓碑が残っているそうですよ」と教えて貰っていた。そこで漯河にやってきて、探してみる。許慎閣祠内と聞いていたので、あっさりと見つかった。記念館の裏側に割れた碑が転がっていたわけだが。開封太郎さんは、意外な情報を知っているなと感心する。しかし、この数日後に開封太郎さんと長葛の陳寔故里などへ行っているので、こっちの墓碑はちょっと怪しいな。ほんと、あっちの街でもこっちの街でも「おらがところの有名人」にしたいわけだね。
関連遺址
陳寔墓
[ 长葛 ]
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